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ウィーン体制

ウィーン会議とその体制-ナポレオン戦争以前に戻そうぜ!-

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ウィーン体制
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ウィーン会議

背景

ヨーロッパ中を蹂躙したナポレオンがエルバ島に流されたあと、
1814年4月に第1次パリ平和条約を結ぶ。

しかし、これだけでは国際秩序は回復せず、欧州の混乱を終わらせ、新秩序を構築するため、
1814年9月から1815年6月にかけてウィーン会議(Wiener Kongress)が開催される。

各国の参加者

  • イギリス・・・カッスルレー
  • フランス・・・タレーラン
  • ロシア・・・アレクサンドル1世
  • プロイセン・・・ハンデンベルク
  • オーストリア・・・メッテルニヒ(司会/外相/のちの宰相)

メッテルニヒが終始指導。

メッテルニヒの思惑


メッテルニヒは多民族国家であるオーストリアにとって、自由主義と国民主義の台頭を最も危惧していた。そのため、それらを抑えるための保守反動の国際体制を目指していた。

「会議は踊る、されど進まず」

会議の期間に注目すればわかる人もいるかもしれないが、
各国が領土を欲張ったために、なかなか会議はまとまらなかった。

舞踏会や晩餐会、催し物が連日のように行われた。
なお、全体会議が行われることは一度も足りとも無く、進展は難航した。

タレーランの「正統主義」

フランスの外相・タレーランが唱えた主張です。

ナポレオン戦争の敗戦で、フランスは領土割譲の危機にあいます。
そこで、タレーランはフランス領の保全のために、
フランス革命以前の主権と領土が正統とと考え、
それを復帰させる原則を提案しました。

各国の君主は歓迎し、それに同調し、基本原則として採用された。
ヨーロッパ各国の勢力均衡(バランス・オブ・パワー)が図られた。
また、ナポレオンのエルバ島の知らせの後、
最終議定書(ウィーン議定書/ウィーン条約)が成立。

ワーテルローの戦いの直前のことである。

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ウィーン議定書

以下のことが決められた。

決定事項

  1. フランス・スペイン・ナポリではブルボン家が復位すること。
  2. ローマ教皇領が復活し、サルデーニャはサヴォイア・ジェノヴァを獲得すること。
  3. ポーランドの大部分にはロシア皇帝を王とするポーランド王国が成立すること。
  4. プロイセンはザクセンの一部とライン左岸を獲得すること。
  5. 神聖ローマ帝国は復活させず、35の君主国と4つの自由市からなるドイツ連邦を構成すること。
  6. イギリスはオランダからセイロン島とケープ植民地を、そして戦時中占領した地中海のマルタ島を獲得すること。
  7. オランダは海外の植民地を喪失した代償に南ネーデルラントを獲得すること。
  8. オーストリアは南ネーデルラントを喪失した代償に北イタリアのロンバルディアとヴェネツィアを獲得すること。
  9. スウェーデンはフィンランドをロシアに、西ポンメルンをプロイセンに割譲する代わりにノルウェーを獲得すること。
  10. スイスを永世中立国とする。


この会議の決定では、メッテルニヒの方針が貫徹された。
ここにウィーン体制という保守反動ではあるが新たな国際秩序が生まれた。

ネーデルラント王国

オランダは北ネーデルラントであった。
南ネーデルラントも併合したため、立憲王国としてネーデルラント王国と名乗った。

フランスは王政復帰

当時は選挙という考えがなく、
知恵がある人に政治を任せようとなりました。

知恵がある人は選挙ではなく、
証拠として、
正当な血統を持つ人が大事でした。
つまり、王様が必要でした。

正統主義は正当な血統の略です。

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ウィーン体制の安寧同盟

国際秩序の安定のために2つの同盟が結成された。

神聖同盟

ロシア皇帝アレクサンドル1世が提唱した「キリスト教徒の正義・友愛の精神に基づく君主間の同盟」という同盟。1815年9月に結成。

イギリスによる皮肉

イギリスの外相で代表のカッスルレーはまるで中二病の中学生を皮肉る高校生かのように、「気高い神秘主義とナンセンスの紙切れ」と同盟を皮肉った。結果として、イギリス、イスラーム教国のオスマン帝国とプロテスタントとの同盟を拒絶した教皇を除いて、ヨーロッパ各国君主が参加した。

四国同盟

1815年11月に成立。ナポレオン打倒の中心国であるイギリス・ロシア・オーストリア・プロイセンから構成される。革命の防止と紛争の終始をはかった。

五国同盟

1818年11月、エクス・ラ・シャペル会議でフランスの参加を認められる。五カ国体制となる。自由主義・国民主義運動の抑圧をはかった。

イギリスの脱退

1822年ヴェロナ会議以降、五国同盟から事実上脱退。メッテルニヒと対立しながら、自由主義外交に転じた。

コメント

  1. より:

    ナポレオンの帰還によりタレーランの主張が通ったということが書いていない

    • Suzue Yuji より:

      コメントありがとうございます。
      あさんがおっしゃるナポレオンの帰還によりタレーランの主張が通った訳ではないと思います。少し飛躍していると思います。
      ナポレオンとタレーランは対立しており、ナポレオンが流刑にあった後、
      ブルボン朝が復活し、タレーランも外務大臣として政界に復帰する訳ですが、
      タレーランは正統主義というある意味詭弁でごり押しして、領土を保ったというのが私の見方です。
      記事の修正の参考にさせていただきます。

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