この記事は工事中です。だである調とですます調が混ざっています。
大変読みにくいですが、ご了承ください。
イスラーム教の成立の背景
セム系アラブ人がアラビア半島において、
小規模農業やキャラバン隊を組んで商業活動を行っていました。
6世紀後半辺りから、
アラビア半島西岸(ヒジャーズ地方(障壁という意味))は
突如重要度を増すことになります。
シルクロードが、
ササン朝ペルシアとビザンツ帝国の国境で途絶えてしまい、
新たに紅海沿岸付近が、
新たな国際中継貿易の新ルートとなりました。
特にメッカは、
キャラバン貿易の中心都市で、
カーバ神殿があることで、商業が繁栄していました。
しかし街では、
クライシュ族などの金持ちと一般の人々の間で
貧富の差が拡大していました。
ムハンマドの召命と説教
ムハンマドの召命
ムハンマドは、570年ごろ、
メッカの名門であるクライシュ族のハーシム家のもと生まれました。
ムハンマドの出生時は
すでに父、アブド・アッラーフは死去しており、
ムハンマドは祖父アブド・アルムッタリブの保護のもと、
ムハンマドの母・アーミナによって育てられました。
しかし、母もムハンマドが6歳の時になくなり、
祖父も8歳の時に他界しました。
孤児となったムハンマドは父方の伯父であるアブー・ターリブに育てられました。
ムハンマドの結婚
25歳のころに、
ムハンマドはアブー・ターリブの勧めで、
商売を営む富裕な商人であるハディージャと出会いました。
その後、ハディージャはムハンマドに結婚を申し込み、
結婚しました。
ハディージャ40歳のころの話です。
3男4女が生まれたが、生後まもなく男児は全員逝去してしまいました。
最初の啓示
ムハンマドが40歳の頃に、
幸福には暮らしていたものの思い悩むようになりました。
ムハンマドはクライシュ族の一部の者がしていたように、
メッカ近郊のヒラー山の洞窟に籠って瞑想に耽り、
610年のラマダーン月(断食月)のとある夜、
仮眠中のムハンマドは大音声によって目覚めさせられました。
それが神アッラー(アッラーフの省略形以下同じ)による
天使ジブリール(ガブリエル)を通じてムハンマドにくだされた最初の啓示でした。
以後死ぬまでの22年間、
断続的に啓示がくださられました。
彼の死の20年後完成したのが現行のコーランです。
イスラーム教の提唱
そんなことから、ムハンマドは預言者であると自覚し、
厳格な一神教であるイスラーム教を唱えた身内などからまず、
自分の体験を語り始め、
614年にムハンマドはメッカで拝金主義や享楽主義、利己主義、大商人の傲慢さを批判したが、神による「最後の審判」が近いと説いたムハンマドの教えは、メッカの富裕層の商人たちから危険思想とみなされたこと、彼らが信じてきたものが単なる偶像にすぎないと言われたことで、商人たちはイスラーム教徒の迫害へと動いた。619年、妻ハディージャと伯父アブー・ターリブが相次いでなくなった。ムハンマドを守ってくれるものはいなくなった。
移住(ヒジュラ)と共同体(ウンマ)
渡る世間はばかりな状況になったムハンマドは622年、少数の信者を率いてメッカの北方約400kmにあるヤスリブ(のちのメディナ/ムハンマドにちなんでマディーナト・アンナビーと改称)に移住。ムハンマドの到着後、メディナの諸集団と結んだ契約がいわゆるメディナ憲章である。それによると、ムハンマドをリーダーとするイスラームの信者(ムスリム)が宗教共同体(ウンマ)となることを意味した。この移住を聖遷(ヒジュラ)という。
メッカ征服
630年、ムハンマドは約1万人のムスリムを率いてメッカを無血征服した。カーバ神殿の偶像を破壊してイスラーム教の聖殿に定めた。この制圧を異教徒からの聖地奪還の試みとしての聖戦(ジハード)の根拠となった。メッカ征服後、ムハンマドのもとには、アラブの諸部族から次々と使節が来訪し、ムハンマドと盟約を結ぶようになった。こうしてアラビア半島の緩やかな統一が進み、メディナの共同体を中心としてイスラーム国家の原初形態が生み出された。
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