高度経済成長期とは、日本が急速に経済成長を遂げた1950年代から1970年代初頭にかけての期間を指します。この期間、日本は第二次世界大戦後の荒廃から立ち直り、世界有数の経済大国へと成長しました。この記事では、高度経済成長の要因とその流れについて詳しく解説します。
第一次高度経済成長
成長の理由
高度成長のきっかけとなった主な要因は以下の2つです。
- 朝鮮特需
- 日本人の高い貯蓄性向
朝鮮特需
1950年、朝鮮戦争 が勃発しました。北朝鮮が韓国に侵攻し、韓国側にはアメリカ軍 が参戦しました。この戦争により、日本はアメリカ軍から大量の物資やサービスの注文を受けることになりました。これがいわゆる「朝鮮特需」です。日本は国連軍の兵站基地となり、その収益が民間の技術・設備の導入に向けられました。
日本人の高い貯蓄性向
戦後すぐということもあり、日本人は高い貯蓄性向 を持っていました。銀行が預金として集めた潤沢な資金を企業に提供し、資金効果を生み出しました。
オーバー・ローン
銀行は貸出超過政策(オーバー・ローン) を行い、企業が銀行から融資を受ける 間接金融方式 が確立されました。これにより、企業への資金供給がスムーズになり、企業は生産力を高める設備投資を行いました。この結果、国内の消費が拡大し、経済が発展しました。
国民所得倍増計画
1960年、池田勇人内閣は「国民所得倍増計画」を策定しました。この計画により、農業基本法の制定や太平洋ベルト構想などが実施され、所得倍増が達成されました。
国民所得倍増計画の詳細
池田内閣は、経済成長を加速するために、大規模な公共投資と民間投資の促進を目指しました。国民所得倍増計画 には以下の施策が含まれていました。
- インフラ整備:道路、鉄道、港湾、空港などのインフラを整備し、物流の効率化を図る。
- 産業基盤の強化:重化学工業や自動車産業など、基幹産業への投資を推進。
- 教育と技術開発:技術者の育成と研究開発の支援により、産業の競争力を向上させる。
- 地方開発:地方都市の産業振興を図り、地域間の経済格差を縮小する。
これらの施策により、日本経済は劇的な成長を遂げ、国民の生活水準も大幅に向上しました。
第1次高度成長の特徴
転型期
日本経済は転換期 を迎えました。この転換期の境目は1964年の東京オリンピック景気と昭和40年不況です。東京オリンピックが終わった後、民間投資も内需も急激に冷え込みました。これにより、経済成長のパターンが第一次から変化しました。
昭和40年不況の背景
昭和40年(1965年)の不況は、オリンピック景気の終焉とともに、日本経済に大きな影響を与えました。この不況の主な原因は以下の通りです。
- 民間投資の減少:オリンピック後の景気減速により、企業の設備投資が鈍化。
- 消費の冷え込み:オリンピック特需の終息に伴い、消費者の購買意欲が減退。
- 輸出の停滞:国際競争が激化し、輸出の伸びが鈍化。
これらの要因により、日本経済は一時的に停滞しましたが、その後の公共投資と輸出拡大政策により再び成長軌道に乗りました。
先進国の仲間入り
この転型期の間に、日本は先進国(Developed Country) に復帰しました。日本は輸入制限が認められるGATT12条国から、輸入制限が認められないGATT11条国となり、貿易が自由化されました。
貿易自由化の影響
貿易自由化により、日本は国際市場での競争力を高めました。これにより、日本製品の品質向上とコスト削減が進み、世界市場でのシェアを拡大しました。
- 輸出の増加:日本の製品が国際市場で評価され、自動車、家電製品、精密機器などの輸出が急増。
- 技術革新:国際競争にさらされることで、企業は技術革新と生産性向上に努めるようになりました。
- 雇用の拡大:輸出産業の成長により、国内での雇用が増加し、労働者の所得も向上。
これにより、日本は経済的にさらなる成長を遂げ、先進国の地位を確立しました。
貿易自由化
日本は1963年に GATT11条国 となり、貿易は自由化されました。
為替自由化
1964年、日本は経常取引に対する為替制限が認められるIMF14条国 から、為替制限が認められない8条国となり、為替自由化を達成しました。
資本自由化
日本は1964年に OECD(経済開発協力機構) に加盟し、名実ともに先進国の仲間入りを果たしました。
OECD加盟の意義
日本のOECD加盟は、経済政策の国際協調を促進し、経済成長の持続可能性を高めました。また、国際社会での信頼性が向上し、外国からの投資が増加しました。
第2次高度成長期
低成長時代
1970年代に入ると、過剰気味だった投資が停滞し、公害問題 も表面化しました。水俣病、イタイイタイ病、四日市ぜんそく、新潟水俣病などが有名です。
公害問題の対策
公害問題に対処するため、日本政府は以下のような対策を講じました。
- 公害防止法の制定:工場や企業に対して厳しい排出規制を設け、公害の抑制を図りました。
- 環境庁の設立:1971年に環境庁(現在の環境省)が設立され、環境保護政策の一元的な管理と推進が行われました。
- 技術開発の支援:企業に対して環境技術の開発を支援し、公害防止設備の導入を促進しました。
これにより、日本は公害問題を克服し、持続可能な経済成長を実現する基盤を築きました。
経済成長急落の2つの理由
1970年代に経済成長の勢いが落ちた要因は、ニクソン・ショック と オイルショック です。
ニクソン・ショック
1971年8月、アメリカのニクソン大統領が 金とドルの交換停止宣言 を出しました。この結果、ドルの国際的信用が失われ、世界貿易は縮小しました。背景には、アメリカの 双子の赤字 (貿易赤字と財政赤字)がありました。
ニクソン・ショックの影響
ニクソン・ショックにより、ドルの価値が下落し、世界経済に大きな混乱をもたらしました。日本もこの影響を受け、輸出の競争力が低下し、経済成長が一時的に停滞しました。
- 為替の変動:ドルの価値が変動することで、円高が進行し、日本の輸出企業はコスト競争力を失いました。
- 貿易の減少:ドルの不安定性により、国際貿易が減少し、日本経済に大きな影響を与えました。
オイル・ショック
1973年に第四次中東戦争が発生し、アラブ諸国が石油輸出規制 を実施しました。これにより原油価格が高騰し、コストインフレとスタグフレーションを招きました。1979年の第2次オイルショックも原油価格の高騰を引き起こし、世界同時不況を招きました。
オイルショックの対応
オイルショックに対応するため、日本は以下の対策を講じました。
- 省エネルギーの推進:エネルギー消費の効率化を図り、石油依存度を低減するための技術開発と政策を推進しました。
- 代替エネルギーの開発:石油に代わるエネルギー源として、天然ガスや原子力、再生可能エネルギーの利用を促進しました。
- 経済構造の転換:重化学工業から知識集約型産業への転換を図り、経済の多様化を推進しました。
これにより、日本はオイルショックの影響を乗り越え、持続可能な経済成長を維持することができました。
参考資料
戦後の実質GDPの推移
・経済白書
・日本経済新聞の記事
参考文献
- 政治・経済 パワーアップ版(別冊つき) (新マンガゼミナール)
- 『日本の経済成長の歴史』経済研究所出版
まとめ
高度経済成長期は、日本が第二次世界大戦後の荒廃から立ち直り、世界有数の経済大国へと成長する過程を示しています。この期間、日本は朝鮮特需 や高い貯蓄性向、オーバー・ローン政策 などの要因を背景に、劇的な経済成長を遂げました。高度経済成長の成功は、日本の 産業基盤 を強化し、国際競争力を高める結果となりました。
また、転換期を迎えてからは、貿易自由化、為替自由化、資本自由化などの政策を通じて、国際競争力を一層強化しました。その結果、日本は先進国としての地位を確立し、持続可能な経済成長を実現しました。1970年代には公害問題やオイルショック、ニクソン・ショックといった困難にも直面しましたが、これらを乗り越えるための政策と対応策が講じられ、日本経済は再び成長軌道に乗りました。
これらの歴史的な経緯を理解することで、現在の日本経済の基盤と将来の方向性について考えるための重要な視点を得ることができます。高度経済成長期の経験と教訓は、今後の経済政策や企業戦略においても重要な示唆を提供するものといえます。
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