第二次世界大戦後(World WarⅡ)の
メキシコ以南のラテンアメリカ諸国でのお話
アルゼンチン:ペロン大統領
1946年に
アルゼンチンの大統領に当選した
ペロン大統領(Peron/1946~1955,1973~1974)に、
民族主義的で改革志向の政権が誕生しました。
これらの政権は
輸入に頼っていた
工業製品を
自前で生産することで、
経済的自立性を高める政策
(専門用語で、
輸入代替工業化政策)、
土地改革を実施しようとしたりする
動きを示しました。
米州機構(OAS)
他方、アメリカは、
1948年にはラテンアメリカ諸国との間で、
米州機構(OAS)を設立し、
共同防衛の体制を樹立しました。
この体制を強化することで、
反米民族主義の動きを
牽制しました。
第二次世界大戦後のキューバの動き
アメリカ系の砂糖企業が多数進出していた
キューバでは親米的なバティスタによる
独裁政権が続いていました。
キューバ革命
1959年1月、カストロを指導者とする
革命運動によって親米政権は打倒される。
カストロは1959年から2008年まで、
指導者として君臨しました。
まさにカリスマ的指導者です。
これをキューバ革命といいます。
カストロは当初は、
社会主義的な側面を持っていなかったが、
アメリカ系の砂糖企業も含めて、
土地改革を断行すると、
アイゼンハワー元大統領は、
1961年にアメリカはキューバと断行。
キューバの親米政権の樹立に向けての試み
アメリカは亡命キューバ人による
革命政権の打倒を計画した。
「アメリカの喉元に刺さった骨」
このように、
資本主義の
アメリカのアメリカ湾に、
ドカンと一発
社会主義国が爆誕したので、
キューバは、
アメリカの喉元に刺さった骨と
表現されます。
ジョン・F・ケネディ(JFK)の政権時代の動き
このアメリカの親米政権樹立の動きは、
ケネディ政権にも継承されました。
しかし、失敗に終わりました。
この親米政権への試みを強める計画の為に、
カストロ議長はソ連寄りの姿勢を強めました。
親米政権へのアンチテーゼとして、
カストロは段々と社会主義思想に
ハマっていきました。
他方、
ケネディ政権は
穏健政策に変化して、
他のラテンアメリカ諸国への
キューバ革命の波及を阻止するため、
「進歩のための同盟」を結成。
以後、キューバは
アメリカによる経済封鎖に耐えながら、
存続を続けることを継続しました。
思想家・行動家「チェ・ゲバラ」
キューバ危機
アメリカからの圧力に対抗するために、
カストロ政権は1962年に、
アメリカからの攻撃から
自身の国キューバを守るために
ソ連のミサイル配備を依頼。
ソ連からの援助で
ミサイル基地の建設に
踏み切りました。
1962年10月、
この動きを事前探査した
ケネディ政権は、
副大統領だったジョンソン副大統領も、
ニューヨークやシカゴも射程距離に
はいるということで、
海上封鎖でソ連船団による
キューバへの
ミサイル資材の搬入を阻止。
米ソの間では
核戦争の危機が
一挙に高まりました。
暖冬のせいかも。
1963年には
宇宙へ向けての
テレビ番組が放送されるとともに、
米ソ冷戦は「あつい戦争」寸前となり、
全世界の
テレビの前の
お茶の間が震えました。
この暖かい冬の弾頭危機を
キューバ危機といいます。
なぜならソ連が
キューバ基地から
アメリカの都市や基地に、
先制攻撃をかけても、
潜水艦や
地下基地から、
カウンター核ミサイルだ!
とアメリカが考えていたからです。
部分的核実験禁止条約(1963年)(逝く無惨な核)
しかし、
アメリカの強硬姿勢に驚いた
ソ連のフルシチョフ書記長は、
アメリカによる
キューバへの内政不干渉や
キューバを攻めないことなどを条件に
ミサイル基地の撤去に
合意したので、
ソ連船団はUターンしました。
これを受けて、
アメリカは海上封鎖を解除。
以後、米ソ間では
平和共存志向が強まり、
アメリカ・イギリス・ソ連は
1963年には、
地下での実験を除く
核実験の禁止条約(部分的核実験禁止条約)が結ばれました。
フランスはまだ核兵器のデータ採集が終わってなかったので、
当時のド・ゴール大統領は怒りました。
また、
中国も三カ国だけで決めるなんてと
怒りました。
この年号の語呂の覚え方は、
逝く無惨な核(1963)で覚えてください。
またこの雪解けで、
両首脳の意志疎通のために、
ホワイトハウス-クレムリン間に
無線電話が引かれた。
これを冷戦中のホットラインといいます。
しかし、
このようなソ連の対米妥協は、
カストロ議長政権に
大きな失望を与えました。
以後、
革命キューバは、
第三世界の革命運動との
連携を強めていきました。

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