1919年4月パリ講和会議
ドイツの講和条約はヴェルサイユ条約として知られる
パリ講和会議が中国にも知らされた。
中国が戦勝国として勝利したにも関わらず、
山東省の利権がドイツから日本へと移譲された。
青年たちの関心は、
- 魯迅
- 陳独秀
- 胡適
- 李大釗
などの「文化」の時代から「政治」の時代へと移動した。
1919年5月4日抗議運動(五・四運動)
この山東省の権益や二十一ヶ条の要求を巡って、
中国大学ランキング2位の北京大学の数千人の学生は、
天安門広場で5月4日に抗議集会を開いた。
覚え方はパリ講和会議が4月と覚えて、
その1ヶ月後とおぼえておけばいいですよ。
デモ行進隊になり、
外国大使館などに抗議文を手渡した。
交通総長・曹汝霖邸襲撃事件
山東半島の日本への利権譲渡や
二十一ヶ条の要求を部分的に受け入れたとみられた
親日派として知られ、
売国奴として見られていた
曹汝霖の屋敷にデモ隊は進軍し、
元駐日公使・章宗祥を殴打、
さらに曹汝霖の家に火を放って32名が逮捕された。
以降、
学生たちは授業を拒否、
日本製品ボイコット運動を始めた。
(日貨排斥運動)
1919年6月3日(六・三運動)
1919年6月3日、
反日街宣運動を一斉に開始。
数百名が逮捕された。
三罷運動
上海に伝わった6月5日、
- 学生の授業ボイコット
- 商人の営業停止
- 労働者がストライキ
の三罷運動が始まった。
労働者のストライキは約10万人規模に膨れ上がり、
上海の都市機能を麻痺させるに至った。
北京政府、ヴェルサイユ条約調印拒否
6月12日、
北京政府は五・四運動の高まりを受けて、
六月末のヴェルサイユ条約調印を拒否するに至った。
また、親日派とみられた曹汝霖らを罷免した。
五・四運動のその後とマルクス主義の蔓延
労働者の民衆運動が政府の動向に影響を与えた初めての経験だった。
この時に影響を受けたのが陳独秀だった。
陳独秀は6月11日、北京で中国市民に直接行動を訴えかけるビラをまき逮捕された。
その後、1920年4月に労働者の権力掌握を主張するに至った。
李大釗はマルクス=レーニン主義を中国に紹介する役割を担い、
のちの中国共産党幹部になるに至った。
彼らにソ連の世界革命を主張するコミンテルンが接近した。
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