ヌルハチと建州女直の3つの役所
明は建州女直に、
- 建州衛
- 建州左衛
- 建州右衛
の3つの役所を設置していました。
ヌルハチは建州左衛の首領になれる1つの家であった愛新覚羅氏の出身です。
ヌルハチの生い立ち
ヌルハチは祖父と父の死により、
25歳のとき、自立します。
日本では、
長篠の戦いの前年の頃です。
ヌルハチは、明の遼東総兵官の李成梁と手を組んで、
お互いに経済的・軍事的に力を蓄えました。
ヌルハチとマンジュ国の成立
1587年(万暦15年)、
日本では、羽柴秀吉が豊臣秀吉に改称した翌年で、
九州征伐を絶賛開催中だった頃、
最初の居城・旧老城を築き、
建州女直の集団を統一します。
豊臣秀吉が日本の天下を統一する前年である1589年、
ヌルハチはマンジュ国を成立を宣言します。
ヌルハチとグレの戦い
グレるグレるグレの戦い。
1593年、
建州女直の統一に危機感を覚えた、海西女直は、
エホ部のリーダーであるナリンブルらを中心に、
内モンゴルのコルチン部らと連合して、
マンジュ国に海西女直&モンゴル民族、
3万人の大軍をヌルハチに派遣しました。
ヌルハチは超優秀な兵100騎を率いて、
機動力を生かしてナリンブルらの軍勢に奇襲したあと、
軍を率いて逃亡します。
そして、
逃げて逃げて、自分が有利になる場所まで、
敵を誘導して連れ込み敵軍を包囲して殲滅しました。
このグレの戦いの前までは、
建州女直より海西女直のほうが勢力は強かったのですが、
この戦いで逆転しました。
また、モンゴルのコルチン部もヌルハチと通商します。
明王朝は、文禄・慶長の役(万暦の朝鮮の役)で、
絶賛、豊臣秀吉と交戦中で、
女真族のイザコザに介入できませんでした。
後金の成立
徳川家康が江戸幕府を開いた1603年、
イェホ部以外の女真族を統一したあと、興京老城に本拠地を移しました。
明王朝は、朝鮮問題がようやく片付いたあと、
ようやくヌルハチに危機感を抱きます。
明王朝はエホ部と屈託し、
ヌルハチの増長を阻止しようとしました。
明王朝との直接的対峙を決意したヌルハチは、
1616年、後金国の成立。
イェホ部以外の女真族から、
ゲンギュン=ハンという称号を得ました。
これが中国最後の王朝とされる清王朝の誕生とされています。
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