今川義元の尾張侵攻
大義は上洛はウソ?
昔は、今川家は上洛のためと考えられていたが。
尾張への侵攻は、
- 三河支配の安定のため
- 鳴海城の救援
- 尾張を獲得するため
という説が最近いわれる真相である。
今川家の尾張侵攻
今川義元、駿府城を出立
1560年5月12日、今川義元の本隊は駿府城を出発しました。
1560年5月18日、今川義元は尾張国の沓掛城を本陣に構えます。
織田家との戦いで、今川家は丸根砦・鷲津砦を陥落させた。
桶狭間の戦い
織田信長、「敦盛」を舞って出陣
今川家の侵攻を聞いた織田信長は、
軍議らしい軍議も開かず、
謡曲「敦盛」を突然舞だし、
終わったかと思えば、急ぎ準備し、
立ったまま食事をとって出陣しました。
砦での準備
織田信長は5人の小姓のみを率いて出陣し、
善照寺砦に入り態勢を整え、
中島砦に入る。
桶狭間山から見ても最も低い位置にあったのが、
中島砦です。
大雨風
午後2時頃、大風雨がにわかに降り出した。
風は織田から今川へと向かって吹き、
今川の前進を阻みました。
今川義元、討死
晴れてきたのち、一気に2千の軍勢は、
今川方2万5千の軍勢に襲いかかった。
今川方は大混乱に陥り、
今川義元をはじめとする武将が討ち取られた。
今川家の軍勢は駿河へと配送することとなります。
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