階級社会の19世紀イギリス
奴隷によるリヴァプールの繁栄と奴隷解放
1713年のユトレヒト条約により、
アメリカへの奴隷供給独占契約権(アシエント)を
イギリスは獲得しました。
その結果、奴隷貿易船がリヴァプールなどの町が反映しました。
奴隷解放令
18世紀からクェーカー教徒によって、奴隷反対運動が進められており、
デフォーやアダム・スミスなども反対していました。
名誉革命後、人間の尊厳に対する人道的世論が高まり
イギリスでは1807年には奴隷貿易の禁止がされました。
その後、1833年、植民地も含む奴隷解放令がグレイ内閣のもとで成立しました。
1838年には奴隷の解放が完全に実現しました。
アイルランド問題とカトリック教徒解放法
1800年、併合法によりアイルランドがイギリスの直接支配化になります。
1801年、
大ブリテン=アイルランド連合王国(United Kingdom og Great Britain and Ireland)が成立します。
イギリス国教会が支配するイギリスでは、
カトリック教徒が多いアイルランドの人びとは
迫害を受けます。
審査法
イギリスの公職(公務員)には
イギリス国教会の信徒でなければ就職できないとする、
審査法(Test Act)が成立します。
これにより、カトリック教徒は信仰を失います。
ダニエル・オコンネルが議員に当選
不満をもったアイルランド人が、
1823年カトリック教会を成立させます。
解放運動をすすめた結果、
1828年の選挙でカトリック教会の指導者オコンネルが当選します。
オコンネルは審査法が原因となって、
議員の立場を拒否されそうになりました。
審査法の廃止
上記の結果、アイルランド人だけではなく、
イギリスの内外各方面から批判が起きて、
暴動の可能性が出てきました。
そこで、1828年、審査法を廃止します。
カトリック教徒解放法
非イギリス国教徒にも、公職への道を開いた翌年、
1829年、カトリック教徒解放法(Catholic Emancipation Act)を制定します。
宗教的差別とアイルランド人への民族差別の廃止を図りました。
イギリスの選挙改革
産業革命以後、農村地域から都市地域にかけて、
人口の移動が起こりました。
そこで問題となったのが、
腐敗選挙区(rotten borough)です。
有権者に比べて、議員定数が多い選挙区のこと。
50名の有権者に対して、2名の議員を出す選挙区が45ヶ所もありました。
1819年8月、マンチェスターで開催された
議会改革と穀物法反対の非合法の集会を
警察官が襲撃したところ、
11名の死者と多数の負傷者を出した事件。この事件名はピーター聖堂前で発生したため
ワーテルローの戦いをもじってつけられました。(英文字参考)
第1回選挙法改正
1830年の選挙で成立したグレイ内閣の努力で
腐敗選挙区が廃止され、
産業資本家層は選挙権を獲得しました。
チャーティスト運動
1830年代後半になって、
労働者階級の参政権の獲得を目標とする
オコナーらを中心とする
チャーティスト運動が展開されました。
チャーティストとは、
1838年に発表された
「人民憲章」(ピープルズ・チャーター)が由来。
デモやストライキ、
さらには暴動を通じて、
運動推進派は普通選挙や秘密選挙、
議員への歳費支給を要求した。
保守党と自由党
トーリ党は
地主や保守的資本家を支持基盤とする
保守党へ
ホイッグ党は、
商業ブルジョワを代表する
自由党へと再編されていきました。
一般工場法制定
シャフツベリー伯の努力で、女性労働や幼児労働を規制する一般工場法が制定されました。
穀物法と航海法の廃止
穀物法の制定
1815年、ナポレオン戦争終了後、安価な穀物の流入から
イギリスの地主の利益を守るために、
輸入の結果、大幅な値下がりをすると、
関税をかけて輸入を阻止する穀物法が制定されていました。
反穀物法同盟
マンチェスターでは、
コブデンやブライトらによって
1839年「反穀物法同盟」が結成されました。
穀物法廃止
自由主義を旗印として掲げられ、
1846年ピール内閣(保守党)のもとで、
穀物法の廃止を決断しました。
航海法廃止
一部海運業者のみを利するという理由で1849年廃止されました。
諸改革の結果
イギリスは自由貿易体制に入りました。
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