前回、高杉晋作が
長州藩内の俗論派である何もしない保守派を破り、
倒幕派である正義派の高杉晋作がクーデターを起こしたところまでは書きました。
今回はその続きです。
第二次長州征伐の背景
長州藩で幕府に恭順の意を示していた保守派が倒れ、
高杉晋作派一派が政権を担うことになります。
そこで、徳川江戸幕府は、中国四国九州の大名たちに、
再び長州征討を命じたのでした。
しかし、今回は
薩摩藩は長州征討には加わりませんでした。
その理由は、
「幕府に都合が悪い政権ができると征伐してもいい」
という前例を作ってはいけないから。
第二次長州征討の開始
第二次長州征伐は、
- 芸州口(広島方面)
- 石州口(島根方面)
- 小倉口(福岡方面)
- 大島口(愛媛方面)
の四方面から侵攻することが計画されました。
大島口には、
伊予松山藩や阿波藩らが担当しました。
阿波藩は基本的に政治の空気を掴むのが得意なため、
絶賛中立的な姿勢を保っていました。
しかし、伊予松山藩は、幕府のために功をなそうと、
一斉に攻める日として計画されていた日よりも1日早く
1866年6月7日、幕艦・富士山丸と大江丸を引き連れて、
周防大島に上陸しました。
伊予松山藩は、
周防大島の占拠に成功します。
しかし、伊予松山藩は残虐行為を周防大島で働きます。
女性への強姦や子どもや老人への残虐行為を行いました。
さらに民家も燃やしました。さらに民家の強盗も行いました。
長州藩の全戦全勝
しかし、それもつかの間、
すぐに長州藩に奪回されます。
長州藩には、
- ミニエー銃
- 最新の西洋の海軍
の2つがありました。
四国方面
伊予松山藩が動きましたが単独行動をしただけで、
阿波藩は依然として出陣拒否。
伊予松山藩は災害が起こりにくい気候であるため、
少しの失敗でも諦めて撤退してしまいました。
こうして四国方面は長州藩の勝利で終わります。
山陰方面
山陰方面はかの有名な戦術家・大村益次郎が指揮。
隣の藩である津和野藩は中立の姿勢だったため、
通り抜けて親藩浜田藩を攻撃。
見事石見銀山をゲットします。
山陽方面
芸州口では徳川御三家の紀州藩が主に戦闘します。彦根藩は壊滅しました。
結局、広島藩は山口藩と元々毛利家の領土だったため、
仲が良く広島藩は中立の姿勢でした。
膠着状態の中、広島藩の仲裁で戦闘は終了します。
九州方面
小倉口でも動きがありました。
幕府軍の九州総司令官が逃亡を図ります。
幕府のために戦争をしているのに、
幕府本体が戦争をしないなら帰るという、
九州男児らしい潔い決断をします。
小倉藩以外の藩が徹底したため、
小倉藩は小倉城に自ら火を付けます。
背水の陣ならぬ背火の陣にした訳です。
長州藩の勝利の理由
①士気の違い
長州藩は負けたら滅亡するという危機感がありました。
それは武士階級だけではなく、庶民階級も同様でした。
「幕府は長州藩に朝敵の汚名を着せて、
勝手に攻撃してくる。我々は毛利元就公の一日一力一心(百万一心)で受けて戦おう」と
広く流れており、士気が高かったのです。
長州藩に住んでいた人一人一人が団結し、
「長防士民合議書」を36万部発行。
一人一人に覚悟を持たせた。
そのころ他の藩では天変地異や社会不安で、
一揆が多発していたが、
長州藩では一揆が起こらなかったという。
第二次長州征伐の終了
徳川将軍である徳川家茂が7月20日に亡くなります。
喪に服すことを大義名分に停戦交渉をします。
第二次長州征伐の影響
江戸幕府はたった一つの藩である長州藩に敗北し、
日本国中への幕府の威信を無くしてしまいます。
また、戦争に食糧がかかったために、打ちこわしや一揆が多発します。
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