佐藤内閣総辞職
閣僚の放言事件や新防衛力整備計画の予算先取り問題なども発生して、
沖縄返還後、1972年7月に第3次佐藤内閣は総辞職しました。
戦後の首相では、在任期間が現時点では最も長い政権は佐藤栄作内閣です。
7年6ヶ月にも及びました。
以前、
において、佐藤栄作首相の在任時の
1972年5月に沖縄が日本に返還されて、
沖縄県となったことは説明しました。
閣僚の失言問題の例
1968年、佐藤栄作内閣の倉石忠雄農相は
『現行憲法は他力本願だ。日本には 軍艦や大砲が必要』と
発言しました。
倉石発言について、
佐藤栄作首相は「政府が現行憲法を守る」と
衆議院予算委員会で表明しました。
しかし、社会党など野党は
農相の辞任を要求しました。
当時は、今より左翼勢力も強く、
個別自衛権の強化ですら、ご法度でした。
反戦運動は1970年代前半に以下の事件を引き起こしました。
●よど号乗っ取り事件
●テルアビブ空港乱射事件
●浅間山荘事件
●大量リンチ殺人事件
当時は連合赤軍などの左翼勢力が暴徒と化していました。
今は、自衛隊の存在がほとんどの世間に容認されていますが、
当時は、自衛隊ですら快く思わない方が多くいました。
マスコミも同調して
倉石氏は農相を辞任しました。
田中角栄内閣
田中角栄内閣の成立
佐藤内閣の総辞職を受け、
田中角栄(1918~1993)が内閣を組織しました。
吉田茂・鳩山一郎・池田勇人・佐藤栄作、
これらの歴代首相は、官僚出身のエリートでした。
ところが、田中角栄は党人派で、
学歴もなかったために、
「庶民首相」と言われ、
当初は好意的に受け入れられました。
日中共同声明・日中国交正常化
1972年9月、田中角栄首相は中国訪問を行い、
北京へと向かいました。
田中角栄首相は、
中華人民共和国・主席の毛沢東や
中華人民共和国・首相の周恩来と会談して、
握手を交わしました。
「日中共同声明」を発表し、
中国との国交正常化を実現しました。
日中共同声明の背景
1971年、中華人民共和国は台湾の国民政府に変わって、
国際連合の代表権を手に入れました。
また、中華人民共和国が中国の代表であると、
各国に認められるようになっていました。
また、ソビエト連邦と中華人民共和国が、
同じ社会主義国であるにも関わらず対立するようになります。
そこで、中華人民共和国はソ連の敵であるアメリカと接近します。
中華人民共和国はアメリカの同盟国である日本への敵視政策も緩めます。
しかし、日本は台湾の国民政府との間で、
日台平和条約を結んでいたのです。
そこで、
田中角栄首相は、
台湾政府と手を切り、
中華人民共和国と国交正常化する方針に変えたというわけです。
この結果、日台平和条約は破棄され、
日本の中華民国との外交関係は断絶しました。
日中共同声明の内容
- 日本は戦争責任を認め、反省する態度を表明すること
- 「戦争状態の終結」という表現はとらず、
両国間の不正常な状態を終わらせるという表現をとる - 中華人民共和国を唯一の合法政府とする
- 中国側は対日請求権を放棄する
の4点です。
「日本列島改造論」
新潟県出身の田中角栄は、
これまで、裏日本と揶揄された、
日本海沿岸や山間の過疎地帯まで、
全国津々浦々に経済成長の成果を均等にもたらそうとしました。
田中角栄は日本海側の新潟県に地盤があります。
太平洋側に集中している工業地帯を日本全国の拠点都市に分散して、
新都市間を高速道路や新幹線で繋ごうとしたものでした。
過密と過疎
人口は太平洋ベルト地帯に集中していきました。
その地域では、住宅不足や公共設備の不備などが深刻化していきました。
これを過密化現象といいます。
対して、農村・漁村や山村・離島などでは、
人口流出が相次いでいました。
これを過疎化現象といいます。
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