前回、朱元璋が洪武帝として、
明を建国し、
漢民族をモンゴル民族をモンゴル高原に帰したところまで、
お伝えしました。
洪武帝の独裁政治体制
中書省と宰相の廃止
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洪武帝は独裁政治体制を作るために、
中書省や宰相の制度を廃止しました。
さらに、
六部を皇帝に直属させました。
つまり、今で言う内閣の廃止です。
総理大臣が
すべての省庁の国務大臣(財務大臣や法務大臣、防衛大臣等)を
兼ねてしまいました。
皇帝の農民支配
里甲制の実施
歴代の支配体制
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内容
110戸で1里という単位で、
そのうちの豊かな10戸を里長に、
残りの100戸は
10戸ずつの小グループである甲にしたのが、
里甲制(りこうせい)です。
お利口ですね。
甲のまとめ役は甲首です。
里長と甲首が
徴税と治安維持の責任をもちました。
台帳
台帳として
- 土地台帳(魚鱗図冊)
- 租税台帳(賦役黄冊)
を作成しています。
六諭
洪武帝が1397年に定めました。
六諭(りくゆ)は、
里内の人望ある長老を
「里老人」とし、
彼らを通じて、儒教主義による
民衆教化をおこなうためにつくられた
6か条からなる教訓です。
以下からなります。
- 父母に孝順なかれ
- 長上を尊敬せよ
- 郷里に和睦せよ
- 子孫を教訓せよ
- おのおの生理(職業)に安んぜよ
- 非為をなすなかれ
の6か条です。
これを里ごとに、
毎回6回、里老人が巡回し、
唱えたのです。
人はみなわすれてしまうものです。
大切なことは何回も言わないと。
日本への影響
六諭衍義大意(りくゆえんぎたいい)として翻訳され、
日本でも江戸時代から読まれました。
そして、その後、
明治時代の教育勅語に反映されました。
洪武帝の対外政策と海禁政策
朝貢
洪武帝は即位と同時に、
周辺諸外国に向けて、
使者を派遣しました。
それは新王朝・明の建国を伝えるとともに、
朝貢(ちょうこう)を促すものでした。
これに応じて、
周辺諸外国の中には、
入貢するものもあらわれました。
1369年、高麗・安南・占城の三国が明の封冊を受けます。
海禁政策
東南沿岸部では、
海賊・方国珍(ほうこくちん)の残党が
反明運動を続けており、
そこに日本からの倭寇が加わり、
両者結託して明に莫大な被害を与えに与えていた。
このため、洪武帝は海上勢力の殲滅を掲げました。
一方、沿岸部の民衆の出海(しゅつかい)を
禁止しました。
これは、海上勢力との間に楔を打ち込んだものです。
これを海禁政策(かいきんせいさく)といいます。
降伏した海民・海賊たちは、
明軍に編入され、
倭寇の襲来に備えさせられました。
また、沿海部に、
城塞を築いたり、軍隊を増置するなど、
海防強化政策もとめどなく行われました。
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