大きな大戦の前には、小さな戦いが相次いで起こり、
勢力が2つに分かれて、分断していく流れが起こります。
代表的なのは、日本の場合、
応仁の乱でしょう。
今回は応仁の乱の前哨戦について見ていきましょう。
- 細川勝元の伊予侵攻
- 細川勝元の兵糧強奪
- 赤松政則の播磨強奪
の3つの事例を見ていきます。
細川勝元の伊予侵攻
1465年、細川京兆家11代当主の細川勝元が伊予国(現在の愛媛県)へ侵攻します。
伊予国守護・河野道春は、山名宗全の養女が妻である山口を本拠とする大内教弘に援軍を要請します。
南北朝時代から、北朝についた讃岐(現在の香川県)を根城にする細川京兆家と南朝についた伊予河野家は伊予守護の座を巡ってライバル関係にあり、現在の愛媛県四国中央市で度々、激突する関係でした。
四国中央市には川之江城がありますが、
細川京兆家や後の阿波三好氏の侵入を防ぐ役割がありました。
河野道春は大内教弘の援軍で、細川勝元を迎撃しますが、
1465年9月、大内教弘は伊予国興居島で病没します。
大内教弘の子・大内政弘の支援も受けて、細川勝元を伊予から撃退します。
細川勝元の兵糧強奪事件
1467年、山名宗全が足利義政に強要して、
畠山政長から管領の座を奪い、
その座を斯波義廉に与えました。
それに反対するかのように、
細川勝元は京に兵を集めて山名の兵糧を奪いました。
赤松政則、播磨全土奪還
また、1467年5月、東軍側である赤松政則が山名領の播磨国に攻め込み、
播磨国全土を赤松家に奪還した事件が発生します。
細川勝元、一色家侵攻
さらに細川勝元は山名側の一色家に攻め入りました。
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