建武時代
当ブログでは、建武の新政の時代を建武時代として、
南北朝時代から独立して表記します。
南北朝時代の始まりは、
後醍醐天皇が吉野に移った時点からにすると、
鎌倉時代と南北朝時代の間に空白期間が生じてしまいます。
ですから、鎌倉時代滅亡(1333年)から後醍醐天皇が吉野に移る(1336年)までの微妙な空白期間を、
建武時代として表記します。
たった4年間の出来事ですが、
空白期間を埋める必要があると思うのです。
ですから、
時代とは言えないかもしれませんが、
鎌倉時代滅亡から南北朝時代の成立の間を、
建武時代とします。
後醍醐天皇の政治
鎌倉幕府が滅んだ後、
後醍醐天皇によって、
建武の新政が始まりました。
天皇の血筋の系統
天皇の系統には色々ありますが、
後醍醐天皇の頃は、
桓武天皇から脈々と受け継がれた血筋が存在しています。
すべては桓武天皇には繋がる訳ですが、
- 大覚寺統
- 持明院統
の2種類が天皇の血筋にはこの頃大きく分けて?存在していました。
ちなみに後醍醐天皇は大覚寺統の血筋の天皇ですが、
後醍醐天皇が即位する前の花園天皇は持明院統の天皇です。
これを両統迭立といいます。
両統迭立は北条高時の頃に扱うので、
ここでは省略します。
後醍醐天皇と延喜・天暦の治
後醍醐天皇は、
延喜・天暦の治を理想としました。
https://歴史総合.com/%e5%bb%b6%e5%96%9c%e3%83%bb%e5%a4%a9%e6%9a%a6%e3%81%ae%e6%b2%bb/
- 延喜の治…醍醐天皇
- 天暦の治…村上天皇
だから、
延喜・天暦の治である
天皇親政時代を理想とした訳です。
ですから、
自分は醍醐天皇の後継として、後醍醐天皇と名乗りました。
息子の義良親王は後村上天皇と名乗りました。
建武新政と中央政治
後醍醐天皇は、平安京リターンを行いました。
武士中心から貴族を中心とする政治に戻しました。
記録所
建武政府では、一般政務を担当したのは、
記録所でした。
これは後三条天皇の
記録荘園券契所を略して
記録所という名前にしました。
雑訴決断所
雑訴決断所は、
鎌倉幕府の引付衆に相当する役所です。
荘園や所領関係の訴訟を司る機関。
いわば紛争解決センターです。
恩賞方
恩賞方は、
鎌倉幕府を倒す力があった人に、
ご褒美をだす機関のことです。
武者所
武者所は、治安維持のための機関です。
その長官を武者所頭人といいます。
武者所頭人には新田義貞が就任します。
後醍醐天皇の地方政治=守護と国司を併設
後醍醐天皇は守護と国司を併設しました。
つまり、
- 守護…武家政治
- 国司…公家政治
の2種類を併設したということです。
建武政府は後醍醐天皇を中心とした勢力です。
後醍醐天皇は朝廷政治つまり、公家政治ですから、
武家政治は必要ないかもしれません。
しかし、時代の流れ的に、
武家政治である守護設置も必要不可欠でした。
いわゆる公武折衷です。
陸奥将軍府
東北の多賀城には、
後醍醐天皇の子ども、
義良親王を派遣しました。
しかし、
実際の政治を行ったのは、
北畠顕家でした。
鎌倉将軍府
関東の鎌倉幕府の跡地には、
後醍醐天皇の子どもである
成良親王を任命しました。
しかし、
実際の政治を行ったのは、
足利直義でした。
その他
征夷大将軍には、護良親王が就任しました。
21世紀初の首相である森喜朗ではありませんよ。
九州には征西大将軍として、
懐良親王が就任しました。
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