開港後の貿易
居留地貿易
開港後、
横浜、長崎、函館で、
1859年、貿易が開始されます。
横浜港
東海道沿いの神奈川を避けて、漁村の横浜に開港。幕末貿易の80%を占める。
東海道沿いの神奈川を避けて、漁村の横浜に開港。幕末貿易の80%を占める。
貿易は居留地で行われました。
そのため、居留地貿易と呼ばれます。居留地で外国商人と貿易しました。
居留地
居留地(きょりゅうち)とは、条約の締結国が外国人に一定地域に限って居住・営業を許可する地域。通商条約締結後、長崎・横浜へ最初にできました。
居留地(きょりゅうち)とは、条約の締結国が外国人に一定地域に限って居住・営業を許可する地域。通商条約締結後、長崎・横浜へ最初にできました。
輸入業者を取引商(とりひきしょう)、
輸出業者を売込商(うりこみしょう)といい、
銀貨決済が普通でした。
輸出入品
日本からは
生糸(きいと)・茶(ちゃ)・蚕卵紙(さんらんし)など、
半製品が輸出されました。
毛織物や綿織物など
完全製品が輸入されました。
鎖国による貿易の相手国として、
イギリスが群をぬいて多く、
開港場のうち、横浜での取引が
全体の80%前後を占めました。
在郷商人の問屋飛ばし
貿易開始の結果、経済界は大混乱に陥りました。
農村部で成長した在郷商人が
製品を横浜へ直送するようになった。
そのために、江戸の問屋は大打撃をこうむりました。
江戸廻送令
そこで、
幕府は1860年、
江戸の問屋を保護するために5つの品目に限って、
必ず江戸の問屋を経由させなければならいというお触れを
くだしました。
これを江戸廻送令(えどかいそうれい)といいます。
ところが、
外国からは
自由貿易の原則を妨げるという批判がおこり、
成果はあがりませんでした。
5つの品目
- 雑穀
- 水油
- 蝋
- 呉服
- 生糸
覚え方は「ザマミロゴキブリ」ですね。
金銀比価の相違
金と銀の価値が、
日本と外国では大きく値が異なりました。
日本では金:銀=1:5
外国では金:銀=1:15
外国人が安く金を買えるので、
金が10万両海外に流出しました。
そこで、
幕府は金の割合が少ない
万延小判をつくりました。
改税約書
輸出税は5%、
輸入税は平均約20%でしたが、
一律5%に下げる条約が1866年に結ばれます。
この条約を改税約書といいます。
これを起草したのはパークスさんです。
これにより、
従価税方式から従量税方式へと
改められていきました。
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