周の成立
周は陝西省の渭水盆地を拠点とする殷に服属する邑の1つであった。
前11世紀,
殷に酒池肉林で悪名高き
紂王があらわれ、
国政が混乱したため、
周の文王が華北平原の豊に進出しました。
そして、文王の子、
武王が牧野の戦いで紂王を破り、殷を滅ぼした。
文王と呂尚の関係は、
太公望呂尚として有名ですね。
また、呂尚と別れた元妻の逸話は、
覆水盆に返らずの話で有名です。
牧誓の伝承
「武王商を征す、これを甲子。」
「尚書」牧聖
易姓革命
易姓革命は天命の血筋が移動して、
命が革まるという意味です。
殷王朝(商王朝)から、
周王朝へと替わりました。
このような王朝の交替を中国では易姓革命という。
西周
周(殷滅亡~東遷までを西周という)。
首都・鎬京
西周は都を渭水盆地の鎬京においた。
鎬京は単に鎬とも言われます。
文王時代の豊と合わせて、
豊鎬とも言われます。
どちらも西安市の西南の澧河両岸にあったと見られています。
1966年
岐山県鳳雛村で、
南北45.2m、東西32.5mの
宮殿遺跡が見つかっています。
1977年、
岐山県周公廟遺跡では、
周の先祖である季歴から武王までの甲骨文字が見つかっています。
古代中国と封建制度
血縁関係のある周王一族と功臣に封土(公邑)を与えて、
世襲させる諸侯とし、公・侯・伯・子・男の5つの称号(爵)に分けられ、
封土の見返りに貢納と軍役の義務を負わせました。
諸侯には卿・大夫・士とよばれる世襲の家臣がおり、
封土(采邑)が与えられ、
貢納と軍役の義務を負わせた。
※ヨーロッパや日本の封建制度とは異なる。
宗族
姓を同じくする父系の集団。
宗法
宗族内の上下関係や秩序などを定めたもの。
宗族の団結を守るために作られた。
宗法に基づく道徳的規範が礼。
井田制
孟子によると周代の土地制度らしい。
井型に9区画わけ、真ん中を公田、
残り8区画を私田にしたらしい。
コメント