南北戦争の終了とリンカン大統領によって、
ゲティスバーグ演説と奴隷解放宣言がなされ、
白人と黒人は法律的に平等になっていく。
と思われていましたが、現実はそうは甘くありませんでした。
それでは見ていきましょう。
白人と黒人の法的平等化
下記に書いてある合衆国憲法修正により、白人と黒人の法的な平等が実現します。
しかし、民主党が率いて負けた南部での黒人差別は残ったままでした。
差別の解消は1960年代のジョンソン大統領まで待たないとなりませんでした。
奴隷制度の廃止
1865年、合衆国憲法修正第13条で奴隷制度は法的には完全に廃止された。
リンカンが発表した奴隷解放宣言が明文化されたものである。
黒人への市民権
1868年、憲法修正第14条で黒人に市民権(公民権)が与えられました。
黒人への参政権
黒人市民権から2年後の1870年、憲法修正第15条で黒人に参政権が与えられた。
黒人諸法(Black Code)
南北戦争後の政治
南部では戦争により大農園経営者であるプランターは没落しました。
奴隷を元に農業をしていたので、奴隷が居なくなって経営できなくなりました。
それの代わりに台頭したのが、中産階級の人民である。
南部再建の中心となったのは、北部の急進派と南部の黒人層です。
北部の急進派と南部の黒人層が様々な改革を進めました。
しかし、それはあまりにも性急にことをすすめたがために、
多くの混乱に陥いりました。
改革は急すぎても、決断力があり卓越したリーダーシップでも人々の声を聞かない政治と罵られ、
改革は遅すぎても、人々の声を聞いてる最中でも決められない政治と罵られるのです。
いつの世も、どこの世も変わりませんね。
KKKの結成
そうした中、クー・クラックス・クラン(Ku Klux Klan/KKK)という名の
テネシー州で南北戦争の民主党系旧南軍兵士により1865年秘密結社(テロ組織)が結成されます。
白人至上主義団体として21世紀現在でもブラックライブズマター(Black Lives Matter(BLM))として再度問題が浮上しました。
黒人テロ問題などの根源になっています。
アメリカ出生主義と白人とプロテスタントの優越を主張し、黒人を迫害した。
20世紀になると、反黒人だけでなく、
- 反ユダヤ主義
- 反カトリック
- 反反戦主義者
- 反進化論
などに排斥対象が拡がりました。
政治家や警察官もかつてはメンバーでした。
現在では、非合法化されている。しかし、まだ消滅していません。
WASP
アメリカ合衆国では、
White(白人)
Angro-Saxon(アングロサクソン)
Protestants(プロテスタント)
の3つの背景を持つ人たちが尊ばれます。
社会学者のウィリアム・トンプソンとジョーゼフ・ヒッキーは
WASP という語には多くの意味がある。社会学では、この語は北西ヨーロッパに家系のルーツを持ち米国建国の担い手となった集団を意味するが、(中略)ほとんどの「白人」を指す語となっている
となっており、今でも金融分野や経営者層には白人が占める割合が大きいのです。
黒人諸法の成立
北部の穏健派は連邦の統一を優先し、南部の白人層を取り込みたいと考えました。
そのため、北部の急進派は南部からの撤退を余儀なくされました。
その後、南部の白人による黒人迫害政策が進んでしまいます。
代表的な政策は
- 投票するためには、先に1ドルや2ドルの投票税を支払わなければ黒人は投票できない
- 憲法の一部を読ませて、その内容を理解できない黒人には投票させない
- 祖父条項…1867年1月1日以前に投票したものとその子孫にのみ投票を許す。
- 白人との結婚禁止
- 土地所有を制限
というもので、州法や州憲法の改正という方法により黒人取締法を実施。
シェアクロッパー制度
さらに南部の白人層は、奴隷解放宣言には黒人への土地の分与が含まれていなかったことに目をつけ、シェアクロッパー制度を制定します。
黒人は、土地を所有していなかったために、農業労働者になるか小作農になるよりほかはありませんでした。
シェアクロッパー制度(Sharecropping/分益小作人)は
- 土地
- 農機具
- 住居
- 家畜
など農業生産に必要な手段を地主から借り受け、
そのかわりに収穫物の3分の1から2分の1を地主に支払うという土地制度です。
農産物価格が下落すると、小作人の収入はマイナスになり、
経済的に自立できることはありませんでした。
まとめ
奴隷解放宣言では、土地の所有問題が解決されなかったがために、黒人の経済的・社会的自立は達成できませんでした。
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