井伊直弼の死後、幕府は求心力を失い、
朝廷の威光を借りようとする。
安藤信正の公武合体政策
井伊直弼の死後、
幕府では安藤信正(あんどうのぶまさ)と
久世広周(くぜひろちか)などの
老中たちが幕府の体制を戻そうとします。
公武合体とは?
幕府は
公武合体(公家と武家の合体)を通して、
朝廷と幕府が協力することによって、
この国難を乗り越えようと、
様々な試みがなされます。
公武間の血縁結合
孝明天皇の妹である和宮(かずのみや)が、
14代将軍の徳川家茂(とくがわいえもち)の
正室として迎えられるになります。
ここに一応の公武合体は成立しました。
坂下門外の変
しかし、そう簡単に済む話ではありませんでした。
このとき、和宮にはすでに婚約者がいました。
有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)です。
朝廷は皇女・和宮の結婚を許す代わりに、
攘夷の断行を要求しました。
安藤信正がこの申し入れを受け入れ、
攘夷は朝廷と幕府の公認と受け止める人もいました。
親王との結婚が
決まっていたのにも関わらず、
幕府による強引な降嫁は、
尊王攘夷論者からの激しい怒りを買いました。
そして、安藤信正は、
江戸城の坂下門外で水戸脱藩士に斬りつけられて、
老中を退くことになります。
これを坂下門外の変と呼びます。
桜田門外の変 | 1860年 | 井伊直弼 |
坂下門外の変 | 1862年 | 安藤信正 |
では、尊王攘夷とは何でしょうか?
尊王攘夷運動
尊王攘夷とは尊王と攘夷という2つの言葉の合成語です。
水戸学の思想です。
藤田東湖・相沢安が中心です。
尊王論と攘夷論
尊王と攘夷それぞれについて詳しく見ていきましょう。
尊王論
天皇崇拝論のことです。
あとでも述べますが、
尊王論自体は幕府成立の条件になっています。
攘夷論
排外思想のことです。
今日でも、移民に反対している方々は
攘夷論者と言えますね。
大政委任論
幕府は朝廷から大政を委任されている
という考え方です。
ですから、朝廷あっての幕府という、
幕府が存在する意義を思想的に保障していました。
諸藩の動向
長州藩
長州藩といえば、尊王攘夷派のように思われますが、
最初は公武合体論で進めていました。
航海遠略策
日本は島国だから、
その周りが海であることを活用して、
積極的に海外に進出し、
貿易すべきだという開国・貿易という
長井雅楽(ながいうた)の考え方です。
安藤信正の失脚後
幕府の公武合体が上手くいっていた頃は、
地方の航海遠略策もうまくいっていました。
しかし、安藤信正の失脚後は、
長井雅楽も幕府の支持者をも失い、
薩摩藩から新公武合体構想がでてきて、
長州藩は藩是を尊王攘夷に切り替えていきます。
薩摩藩
藩主の父・島津久光は、
1862年に寺田屋事件などで藩内の尊王攘夷派を抑えつつ、
勅使・大原重徳(おおわらのしげとみ)とともに、
江戸に赴き、幕府のの改革を要求しました。
それが文久の改革です。
文久の改革
- 松平慶永を政治総裁職に任命
- 徳川慶喜を将軍後見職に任命
- 京都所司代などを指揮して、治安維持にあたらせる京都守護職を設置。
- 会津藩主・松平容保を京都守護職に任命
- 参勤交代を3年に1回に緩和
- 西洋式軍制の導入
- 安政の大獄以来の処罰者の赦免
などを行った。
寺田屋事件
京都に上洛した島津久光が、
薩摩藩の藩是は公武合体でしたが、
中には尊王攘夷派の志士もいました。
有馬新七ら藩論の異端者を
殺した事件です。
コメント