1848年はフランスから始まった運動がやがて全世界に広がっていくことになりました。
これがいわゆる1848年革命です。
七月革命によって始まった七月王政は、
政治的混乱をようやく終結することになった。
すなわち、ある基準以上の人口を所有する市町村に、
男子小学校の設置を義務づける初等教育法(1833年)や
政府が鉄道建設を財政や法律の側面から支援する
フランス幹線鉄道設置法(1842年)など、
近代市民社会の自立を促進する政策が矢継早に打たれた。
七月王政の問題点
七月王政は復古王政に引き続いて(必要納税額は減税された)ものの、
フランスでは新たに制限選挙が導入されました。
そのため、今まで参政権を得られなかった
小ブルジョワジーや民衆は不満を抱き、
参政権の拡大や男性普通選挙制度の採用など
選挙制度改革を求める運動に乗り出した。
さらに、1845年からは不作が続き、農民の多くが困窮しました。
農民の多くは衣服等の工業製品の購入を控えたために、
今度は工業部門が不況に陥いりました。
フランス経済はいつものように経済危機の状態がデフォルトであり、
貧しい民衆の不満は高まり、各国で動乱騒ぎになりました。
1848年2月、
このような状況のもと、
立憲君主政左派や共和派は、
パリで選挙制度改革を要求する集会を計画しました。
七月王政の政府は集会を禁止したが、
積もりに積もった怒りを持ったパリ市民は、
フランス伝統の武装蜂起をし、
3日間のバリケード戦を行い、
国王ルイ=フィリップが退位と亡命を強いられた。
これが二月革命です。
ただちに社会主義者ルイ=ブランや労働者も含んだ臨時政府が組織されて、
フランス第二共和政への移行と、
男性普通選挙制度の採用を宣言しました。
フランスはこのように王政と共和政を繰り返している訳ですね。
政府は社会主義者や民衆たちからの圧力があって、
集会および出版に関する自由、
さらには生存権や労働権や結社権などの社会権を認めました。
また、ルイ=ブランの思想を背景にできた
「国立作業場」を設置して失業者を救済するとともに、
民衆の代表者が労働条件について
政府に提言するための機関である
リュクサンブール委員会を設置するなど、
社会問題に取り組む姿勢をみせた。
1848年4月、男性普通選挙制度に基づく、
憲法制定国民議会選挙が行われました。
この憲法制定国民議会では、穏健共和派が多数を占めて、
穏健政策路線への方針転換がはかられました。
臨時政府にかわって行政権を行使するために、
執行委員会が置かれました。
しかし、議会で選出された執行委員の中に社会主義者はいませんでした。
執行委員会は国立作業場を閉鎖し、
不満をもったパリ民衆はいつものように蜂起して、
再度反乱を起こしました。(六月蜂起)が、
武力鎮圧で反乱は鎮圧されてしまいました。
1848年11月、三権分立(大統領・立法議会・司法)を定めた憲法が制定されて、
12月、男性普通選挙に基づく大統領選挙が実施されました。
圧倒的支持を得てフランス第二共和政の初代大統領になったのは、
ナポレオンの甥として超有名人だった
ルイ=ナポレオン(任期1848-1852)です。
彼があの有名なナポレオン3世です。
1849年5月、立法議会選挙が実施されました。
選挙で勝利したのは、旧王党派からなる「秩序党」でした。
秩序党主導の立法議会は、社会主義派や共和派の力を削ぐために、
言論や集会の自由を制限して、ストライキを禁圧しました。
参政権取得要件を厳格化した新選挙法を制定しました。(1850年)
こうして自身の地盤を固めた秩序党は、
権力の所在をめぐり、
いよいよ大統領ルイ=ナポレオンおよび大統領支持派(ボナパルト派)と対立を深めました。
しかし、秩序党とルイ=ナポレオンでは、
国民人気はルイ=ナポレオンの方が圧勝でした。
1851年12月、ルイ=ナポレオンは、国民からの支持を見越し、
男性普通選挙制度の復活を旗印としてクーデタを実施。
彼は議会を解散するとすぐに、ただちに大統領に権力を集中させる憲法案を起草し、
年末に強行された国民投票で圧倒的支持を得ました。
1852年11月、帝政復活の是非を問う国民投票が実施されました。
大統領選挙にも増して圧倒的支持を得た
ルイ=ナポレオンは、クーデタのちょうど1年後に、
皇帝ナポレオン3世(1852年-1870年)として即位しました。
これが第二帝政の始まりです。

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