二月革命は、
戦争が長続きしたため、
物資が都市部まで行き着かず、
また、日露戦争・第一次世界大戦での、
連戦連敗による士気の低下、
女性労働者の平和的デモが、
いつの間にか革命になった事件です。
第3次世界対戦のロシアでは、
このときの反省から、
物資の供給にはぬかりなく力を入れている様子ですね。
二月革命の名前の由来
二月革命は1916年3月8日に起こった事件ですが、
二月革命と呼ばれます。
それは、ロシア暦ではユリウス・カエサルが作った、
ユリウス暦が採用されていました。
ロシアではローマ帝国が東西に分割された際の東方教会(ビザンツ)の正統な後継者だと主張するために使われていたんですね。
二月革命の背景
第一次世界大戦での連戦連敗
ロマノフ朝ロシア帝国は、
第一次世界大戦が始まってからというもの、
連戦連敗の状況でした。
すでに、1904-05年に勃発した、
日露戦争でロシアは名目上敗戦したことになっており、
スラブ民族は土地が大好きなのに、
土地が日本に取られてしまって、
すごく苦々しい経験として記憶に新しい状況でした。
そんななか、第1次世界大戦でのタンネンベルクの戦い(1914年)でも、
ドイツの機動力に対して、ロシアはスピードで負けて敗戦。
さらに、翌年の1915年、
ガリツィア戦やポーランド戦でも、
連戦連敗が続きました。
第一次世界大戦は、
パン=スラブ主義vsパン=ゲルマン主義
の民族間闘争の結果起こりましたね。
ロシアでは、
厭戦感情。つまり、
戦争を嫌う感情が濃くなってきました。
ゲームでもそうですが、
勝ったり負けたりするゲームと
負け続けるゲームだと、
負け続けるゲームをし続けたい人は、
国としてもない訳です。
ロシアの挙国一致体制への動揺
こうした中で、
ロシアが構築した戦争への
国を挙げて一致団結しようという、
挙国一致体制に動揺が走りはじめます。
ロシアでは、
ロシア社会民主労働党以外は
挙国一致体制が構築されていました。
前述の連戦連敗で、
兵士はママの元へ
帰りたい状況でした。
労働運動の高まり
1916年の夏頃、ロシア革命の前年ですね。
ロシアでは労働運動がだんだんと高揚していきます。
それは、「クリスマスまでには帰るから」のフレーズでお馴染みの、
第一次世界大戦がこんなに長期化するとは思っていなかったからです。
物資が欠乏する状況に都市部ほどなっていきました。
都市部では、食事すらままならない状況になっていきました。
21世紀のロシアはこの当時の反省から、
交通網の整備や物資の供給に力を入れていきました。
どっかの極東の島国のように、
同じ失敗は2回も繰り返さなかった訳ですね。
「過ちを改めざる。これを過ちという。」
by孔子
それは、当時の首都で、
ソ連時代のレニングラード、
現在のサンクトペテルブルグである、
ペトログラードではさらに深刻でした。
二月革命
「パンをよこせデモ」
日本では、富山の主婦が米をよこせと米騒動を起こす前年の
1917年3月8日、
3月8日は国際婦人デーということで、
ロシアの女性労働者を中心に
「パンをよこせデモ」
が発生します。
国民には、パンとサーカスだけ与えておけばいいのに、
パンすら与えないとどんな状況になるのか?
みたいな状態ですね。
このパンをよこせデモは、
当初は主婦のデモでしたが、
ここに男性労働者や男性兵士も加わっていきます。
どんどん人足が増えていったのですね。
革命の一週間
この1917年3月8日木曜日(ロシア暦2月23日)にはじまった事件は、
わずか一週間で帝政ロマノフ王朝を終焉させることになります。
一週間の仕事で、
首相をはじめとする政府関係者が逮捕されまくりました。
ニコライ2世の退位
こうして、
ロシア暦3月15日にはロマノフ王朝最後の皇帝ニコライ2世が退位。
こうして長きにわたって続いた帝政ロシアはここに終わりました。
余談ですが、ニコライ2世はその後、
革命派に殺されます。
ソヴィエトvs立憲民主党
ロシア二重支配時代
日本では、平安時代と鎌倉時代が一部重なっているように、
ロシアでも戦争継続派の立憲民主党と、
戦争即時中止派のソヴィエトが戦うようになっていきます。
ロシア国会では、自由主義勢力である、
西欧かぶれの立憲民主党が政権を短い期間ですが担います。
立憲民主党が臨時政府を樹立しました。
立憲民主党は女性参政権導入など画期的な政策もいち早く導入しますが、
戦争継続という点で失敗しました。
一方で、
労働者たちを中心とする勢力は各地に
ソヴィエトを結成します。
ソヴィエトは評議会という意味でしたね。
こうして、
1つの国に2つの権力が出現する
二重権力体制となっていきました。
続きは、
ソヴィエトvs臨時政府をお届けする予定です。
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