中曽根康弘内閣とは?
中曽根康弘(1918年~2020年)は、1982年鈴木善幸内閣の後、首相の座に就きました。首相の期間は(1982年~1987年) です。
「戦後政治の総決算」というスローガンに掲げました。
軍備増強憲法改正を唱えたタカ派の自民党の首相です。
タカ派とハト派
タカ派というのは強硬論者のことです。
軍備増強や憲法改正が人生哲学の人たちです。
ハト派というのは協調論者のことです。みんな仲良くみたいな人たちです。
中曽根康弘内閣の実績
全斗煥大統領と会談
1983年、まず着手したのは日韓外交でした。
中曽根首相自身が韓国に赴き、
全斗煥大統領と会談して日韓新時代の到来を確認しました。
韓国に40億ドルの経済援助をするという合意が成立しました。
中曽根・レーガン会談「日米運命共同体」
同じく1983年にはアメリカ大統領のレーガンとも会談を行っています。
中曽根康弘もタカ派、ロナルド・レーガンもタカ派です。
お互いに相性でロン・ヤス呼びあうほど仲良くしており、
日米関係は「運命共同体」にあるという声明が出ました。
当時のアメリカとソ連との間では新冷戦時代でした。
レーガン大統領が強いアメリカを蘇らせようとしていました。
レーガン大統領はアクション俳優出身の首相です。
そのため、宇宙軍の創設など軍事費を増やす傾向にありました。
ソ連とアメリカが緊張状態にありながら、
日米関係をどうするかに関して
中曽根康弘は
「ソ連の爆撃機に対して日本は不沈空母にする。」
そして「ソ連の潜水艦に対しては海峡を封鎖する」などと言いました。
これは政治の右傾化を最も象徴する発言と言ってもいいでしょう。
臨時教育審議会発足
1984年、行財政改革を重点課題と位置付けた中曽根内閣は首相直属の諮問機関として臨時教育審議会訳して臨教審を設立しました教育に対する統制を強化する目的で置かれたのです。
全斗煥大統領来日
韓国の大統領であった全斗煥が1984年、今度は来日しました。
男女雇用機会均等法の公布
背景とその公布
男女雇用機会均等法の話の前にそもそもの話をしておきます。男女雇用機会均等法はなぜ施行されたかといえば、一言で言えばメンツのためです。
国際連合が1975年を国際婦人年と定め、
それを受ける形で1979年に女子差別撤廃条約が採択されました。
この条約に日本は1980年に署名はしましたが批准はできませんでした。
国内でも法整備をきちんとしておかなくてはいけなかったのです。
女子差別撤廃条約を批准するために男女雇用機会均等法が制定されました。
プラザ合意
1985年プラザ合意が得られました。
アメリカイギリス日本ドイツフランスの5カ国の財務大臣がニューヨークのプラザホテルで開かれた会議で「ドル高を是正しようそのためには協調介入しようぜ」というお題目で本当の名目は日本の輸出があまりにも多いのでアメリカイギリスドイツフランスの4カ国が日本の輸出を減らすために円高介入したというのが実態です。
その結果、4カ国が意図したように円高が進行します。
円高が進めば原材料日本の中継ぎ貿易はどちらかといえば逆に有利になりますます日本の貿易黒字は増えていきました。
バブル景気
プラザ合意の結果円高が進行しました。輸出業者にとっては円高は負の作用に働きます。ですから円高不況という深刻な状態に一時なりました。
ところがどっこい政府は公定歩合引き下げ何とか凌ぐことはできて景気が上向き始めました。
詳しくはここのリンクを見てね。
ルーブル合意
1987年、アメリカイギリス日本ドイツフランスに加えてカナダイタリアを加えた7カ国が取り決めたのがルーブル合意といいます。
85年が5カ国。87年が7カ国。と覚えてください。
ルーブル合意は調整するための話し合いでした。
結局、各国は日本がやっぱり円高はマズいと考えて、
欧米の思惑で円安の方向に誘導されました。
防衛費 GNP の1%枠突破
1986年中曽根康弘内閣の時代、防衛費が GNP の1%枠突破しました
三木内閣の時に防衛費を GNP の1%枠内に抑えようと言っておきながらの話です。
これも軍備増強政策の表れと言えます。
売上税の導入の失敗
中曽根内閣は売上税導入失敗します後継の竹下登にバトンを渡すこととなります。
民営化政策
国鉄分割民営化
1987年、国鉄分割民営化の結果 JR が発足しました。
6つの旅客鉄道会社と1つの貨物鉄道会社そして国鉄清算事業団の合計8つに分割されました。
その他
日本電信電話公社を NTTを設置しました。
日本専売公社をとして1985年設置しました。
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