七月革命とは?
ウィーン体制によって、
せっかく倒したはずの
ブルボン王朝が復活しました。
そこで、共和派の人びとによって、
再びブルボン王朝は倒され、
オルレアン王朝による立憲君主制の国家(七月王政)が誕生するというお話です。
七月革命の背景と革命までの流れ
七月革命は2人の王の反動政治への怒りが革命の原因となります。
2人の王の治世を見ていきましょう。
ルイ18世の治世
ブルボン王朝の復活とともに即位したのが、
ルイ18世(在位1814年~1824年)です。
- 憲章という名の憲法制定
- 市民の選挙権を大幅に制限する
など、再び民意を無視した政治を行うようになりました。
シャルル10世の治世
ルイ18世のあとに王座についたのは、
シャルル10世(在位1824年~1830年)でした。
- 亡命貴族の財産保障
- 軍隊の統帥権の掌握
などの反動政治を行いました。
また、
国民の不満をそらすために、
アルジェリア出兵を行いました。
内閣不信任案と選挙結果無視という暴挙
1830年5月、
シャルル10世は内閣不信任案を決議した議会を解散します。
1830年7月、
選挙では、国王肯定派の妨害も受けながら、
270対145で国王否定派の勝利となりました。
国王シャルル10世は、結果を認めようとせず、
さらには、無視しようとしました。
新聞の「ナショナル」や「グローブ」などは、
出版統制を受けることとなりました。
栄光の3日間
このため市民は国王シャルル10世に対して立ち上がりました。
「栄光の3日間」と呼ばれる戦闘が発生し、
国王側は見事敗北となりました。
七月王政
革命派内部では、
共和派と立憲君主派との対立がありました。
その妥協策として、
自由主義者として知られていた
オルレアン家のルイ=フィリップ(在位1830年~1848年)が国王につきました。
ルイ=フィリップはフランス国民の王と呼ばれるようになります。
七月革命の影響
ブルボン王朝が再び崩壊したことにより、
ウィーン体制もまた、一部崩壊したといえます。
これはヨーロッパ中に衝撃を与えることになります。
ベルギーの独立
オランダの支配下であった南ネーデルラントのブリュッセルで暴動が発生します。
10月にはベルギー独立宣言が出され、臨時政府が樹立します。
レオポルド1世が王位につきました。
1831年のロンドン会議で国際的に独立が承認されました。
ドイツ関税同盟の発足
ドイツではザクセンの民衆が立憲運動で暴徒化します。
ドイツの王らは、退位を余儀なくされ、
個人の権利を保障する憲法が発布され、
選挙に関する権利が確立されました。
一方、
アメリカから帰国した経済学者リストの影響をうけて、
ドイツ関税同盟が発足します。
これにより、
分裂していたドイツの経済的統合が図られました。
青年イタリア
カルボナリが蜂起します。
しかし、これは失敗に終わります。
そのカルボナリ党員の
ジュゼッペ・マッツィーニは亡命先のマルセイユで、
大衆政党へとなるために、青年イタリア(ジョヴィーネ・イタリア)を結成します。
青年イタリアは統一イタリアを建設するべく、
イタリアの民衆を蜂起させることにありました。
スペインの争乱
スペインでは立憲運動と王位継承をめぐる争いが深刻化し、
第1次カルリスタ戦争が勃発します。
ポーランド…ワルシャワ蜂起
ポーランドではロシアの支配から離脱を目指す反乱が発生します。
しかし、ロシア軍によって鎮圧され、
自治権が大きく剥奪され、ロシアによって厳しく取り締まられます。
ポーランドのロシア化が進んでいくこととなりました。
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