メソポタアとは
メソポタミアとは
北のティグリス川と
南のユーフラテス川の間の地域を指します。
メソポタミアはギリシア語で、
「川と川の間の地」という意味です。
メソポタミアでは灌漑、排水施設を整備し、
この川の水を利用すれば、
豊かな農業生産が可能であした。
そして人口が増加し神殿を中心とした村落が成立し、
銅・青銅器も普及しだした。
文字が発明されたのはこのころ。
「肥沃な三日月地帯」
メソポタミアから地中海東岸のシリアにかけて細長く展開する緑地帯は、
「肥沃な三日月地帯」(Fertile Crescent)と呼ばれ、
地球最古の農耕文明発祥の地です。
肥沃な三日月地帯の具体的地域名称
- シリア
- パレスティナ(イェリコ)
- アナトリア(チャタル・ヒュユク)
- 北メソポタミア(ジャルモ)
- ザクロス(アリ・コシュ)
これらの地域で同時多発的に農業が起こったと考えられています。
この農業はまだ穀物栽培と家畜飼育ぐらいの、
原始的農業でした。
ウバイド文化
ウバイド文化とは前5500年から前3500年頃までおこったメソポタミアの文化。
灌漑農業に成功します。
天水農業に比べて農業の収穫量がふえて、
人々の食べられる量が増えて繁栄します。
天水農業とは雨だよりの農業のことです。
で、灌漑革命により、
なんと!川から水を引いてくるということができるようになり、
農業に欠かせない水を作物に与えつづけることが
できるようになりました。
都市国家の誕生
紀元前4000年代後半の時代、
ウルク期(B.C.3500年前-B.C.3100年)において
都市国家は誕生しました。
ウルク遺跡には大きな神殿も確認されています。
文字を書いた粘土板も発見されており、
何らかの文化があったことも確認されています。
でも、その大半は生活の愚痴だったとか。
王号を示す文字もあり、
王権が成立していたことも確認できます。
この都市国家誕生を都市革命という言い方もします。
シュメール人の国家建設
村は都市に発展し、食糧生産事業に携わらない者(戦士、神官、商人など)が生まれた。
メソポタミアで最初の都市文明を築いたのはシュメール人。
前2700年頃まで都市国家が多数形成、代表的なものはウル、ウルク、ラガシュなど。
ラガシュ国とウンマ国の国境争いは前2500年頃から長期にわたります。
都市の中心部にはジッグラトと呼ばれる神殿がありました。
また王が神の名のもとに神権政治を行いました。
都市国家の分立状態であるシュメールを統一したのは、
ウルクの諸王です。
ウルクの王、エンシャクシュアンナは、シュメール諸都市の盟主として、
北のキシュと戦い征服します。
シュメールを本当の意味で最初に統一したのは、
ルガルザゲシでした。
ルガルザゲシはウンマの王を継いで、
のちにウルクへ本拠を移し、シュメール統一の覇権を手に入れました。
交易により必要物質を手に入れ豊かな経済力を手に入れ、高度な文明を築いたが、セム語系アッカド人によって征服された。
アッカド王朝
前24世紀
サルゴン1世のときにルガルザゲシらを破り、
メソポタミアを統一し、アッカド王朝を建国します。
第4代の王、サルゴン1世の孫、ナラム・シンはアッカド王朝の最盛期を築き、
四方世界の王と称した。さらに自らを神としました。
その後、東方のエラム人や西方のアムル人に滅ぼされる。
アッカド王朝の軍事力
シュメールは基本的に槍と盾を装備した
密集兵団(ファランクス)だったのに対し、
アッカドでは槍に加えて、弓を使用していた。
アッカドでは常設の王直属軍が居たのに対し、
シュメールでは、半農半兵の労働集団が主でした。
シュメール人の復活
前3000年紀の末
ウル第3王朝のもとでシュメール勢力が復活、しかし、エラム人によって、
メソポタミアに侵入され、崩壊。
シュメール人はこのご歴史の幕に現れることはない。
(シュメール王が十六菊花紋を王の紋章としていたことから天皇家のルーツはシュメール人であるとする説もある。)
バビロン第1王朝
前19世紀
アムル人がバビロンを都とする古バビロニア王国(バビロン第1王朝)を建国。
ハンムラビ王
前18世紀
第6代目ハンムラビ王のとき全メソポタミアを統一
↓
中央集権国家に発展。
シュメール法を継承したハンムラビ法典(フランスの探検隊がペルシアの古都スサで石碑に刻まれた原文を発見)を制定。
特徴
「目には目を歯には歯を」の同害復讐法の原則
身分により異なった刑罰を課す
なお、ハンムラビ王は治水事業でも成果を上げた。
インド=ヨーロッパ語系民族の侵入
上記の民族が先住民を撃破。
ヒッタイト王国
前19世紀頃、
小アジアのボアズキョイ(ハットゥシャ)を都にヒッタイト王国を建国。
全16世紀には古バビロニア王国を滅ぼした。
南進してミタンニ・エジプトと抗争。
カデシュの戦い…vsラムセス2世(エジプト新王国)
シリアをめぐって争った。
引き分けに終わり世界最古の講和条約が結ばれた。
ヒッタイトが強かった理由
馬と戦車に加え、鉄製武器を使用したことによる。
前1200年頃
バルカン方面から来襲した民族によってヒッタイトは滅亡。
→製鉄技術がオリエント中に伝わった。
メソポタミアの混沌
古バビロニア王国が滅んだあと、インド=ヨーロッパ語族のカッシート人が侵入し、バビロン第3王朝を建国し400年支配、フリル人がメソポタミア北部に北シリアにかけてミタンニ王国が成立し前15世紀~前14世紀半ばまで強い勢力を誇示した。
民族大移動の波を東地中海地方を襲うと混沌は大きなものとなった。
メソポタミアの宗教メソポタミアの文化
多神教(ただし民族ごとに異なる)
古バビロニア王国のときはマルドゥクが国家神
シュメール人が楔形文字を生み出し、最古の法典と言われるウル・ナンム法典を作った。さらに言語系統のことなるセム語系やインド=ヨーロッパ語族の民族のあいだまで使用されアケメネス朝に至るまで使われ人々はこの文字を粘土板に記した。占星術や農作業のために天文・暦法が発達した。六十進法に基づく時間の観念や7日を1周間とすることは現代に引き継がれている。
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