1. 決別の日:1573年2月13日と「御内書」の乱発
1573年2月13日、ついに室町幕府15代将軍・足利義昭が、織田信長に対して公然と牙を剥きました。信長は義昭を「公儀御逆心(幕府への反逆者)」と断じ対立が深まった。
各地の諸大名に義昭は打倒信長を命じる御内書(密書)を送りまくります。
この時、近江の慈敬寺などにも協力を要請し、信長を四方から封じ込める「信長包囲網」が完成しました。
2. 包囲網の豪華すぎる顔ぶれ
義昭の呼びかけに応じた面々は、信長にとってまさに悪夢のようなラインナップでした。
- 東: 最強の騎馬軍団を率いる武田信玄
- 西: 執念深く抵抗を続ける三好三人衆と松永久秀
- 北: 義理堅い同盟の浅井長政・朝倉義景
- 宗教勢力: 本願寺顕如と、凄まじい団結力を誇る加賀一向一揆
義昭は、これら有力大名が同時に攻め寄せれば、信長を京都から追い出し、天下再興が叶うと信じていました。
3. 挙兵と誤算:石山・今堅田の戦い
2月17日、義昭は新御所から打って出ようと画策します。これに呼応して、近江石山や今堅田(滋賀県大津市)の砦に幕府軍が立てこもり、挙兵しました。
しかし、信長の行動は電光石火でした。信長は即座に軍を動かし、包囲網の要となる石山・今堅田をあっさりと攻略。義昭は人質を差し出して一度は和睦しますが、心の中では依然として援軍を待つ状態でした。
4. 崩壊する「絵に描いた餅」
義昭の戦略には致命的な弱点がありました。それは「諸大名の足並みが揃わない」ことです。
最大の期待の星だった武田信玄が西上作戦の途中で病没し、朝倉義景は軍を引き上げてしまいます。バラバラの足並みでは、強力な織田軍には太刀打ちできません。結局、義昭の「包囲網」という壮大なプランは、実現不可能な絵に描いた餅に終わり、翌年には幕府そのものが滅亡へと向かうことになります。
もし内容に間違いがあったり、もっと詳しく知りたいポイントがあれば、いつでも「そこは違うよ」や「ここを教えて」と教えてください。それが一番助かります!
コメント