北条時宗といえば、
Civilization6で、
日本の主要リーダーとして登場しています。
海外では、
北条家の家紋がトライフォースに見えることから、
トライフォースくんの愛称でも知られています。
さて、
北条時宗は鎌倉幕府第8代執権です。
二度の元寇を撃退
北条時宗は、モンゴル帝国からの二度の侵略戦争に対して、
日本側は防衛戦として二回とも勝利しました。
それは神風のおかげと言われていますが、
それだけではありません。
モンゴル視点は以下を参考にしてください。
https://歴史総合.com/%e5%85%83%e3%81%ae1%e5%9b%9e%e7%9b%ae%e3%81%ae%e6%97%a5%e6%9c%ac%e9%81%a0%e5%be%81/
https://歴史総合.com/%e5%85%83%e3%81%ae2%e5%9b%9e%e7%9b%ae%e3%81%ae%e6%97%a5%e6%9c%ac%e9%81%a0%e5%be%81/
元寇の年号の覚え方
元寇の年号は覚えやすいので、
覚えておくと良いでしょう。
1274モンゴル。
1281モンゴル。
と簡単に覚えておくと良いでしょう。。
モンゴルサイドの元寇の覚え方は、
1274年第1回日本遠征
1281年第2回日本遠征
と両方の側面で覚えておくと良いでしょう。
モンゴル帝国の簡単な概史
https://歴史総合.com/%e3%83%a2%e3%83%b3%e3%82%b4%e3%83%ab%e5%b8%9d%e5%9b%bd%e3%81%ae%e5%bb%ba%e5%9b%bd/
モンゴル帝国がどうやってできたかは、
上のリンクに書いていますが、
簡単にざっと書いていきます。
成吉思汗という人間が
モンゴル高原を統一しました。
チンギスハンの後継者として、
オゴタイ=ハンが登場して、
女真族の王朝だった金を滅ぼしました。
https://歴史総合.com/%e3%82%aa%e3%82%b4%e3%83%87%e3%82%a4%e3%82%ab%e3%83%b3/
チンギス=ハンの孫で、
チンギス=ハンの末子である
トゥルイの息子である、
忽必烈がモンゴル帝国を分割し、
遊牧民なので、
定住はしませんでしたが、
中国を支配するため、
中国式の文化を受け入れ、
首都を大都中華高原の一帯を元と国号を定めました。
ちなみに、
チンギス=ハンの長男のジョチは、
実はチンギス=ハン自体と血の繋がりがなく、
チンギス=ハンの妻が敵に犯されて生まれた子です。
また、遊牧民では長子相続ではなく、
末子相続が基本です。
長男ではなく、
末っ子が家を継ぐのが遊牧民のスタンダードです。
モンゴル帝国は、
高麗も侵略します。
三別抄の乱を鎮圧し、
モンゴル帝国は高麗も滅ぼしました。
こうして、朝鮮半島は
モンゴルによって組み換えられてしまいました。
三別抄の乱が1273年に起きたので、
モンゴル軍は1274年という翌年に日本に侵略してきました。
文永の役(1274年)の経緯
文永の役の背景
まず、モンゴル帝国は鎌倉幕府に対して、
日本がモンゴル帝国に服属するよう使者を送りました。
しかし、そのような案件であるため、
鎌倉幕府はその使者に返事をせず返しました。
もう一度来ましたが、
返事をせず、だらだら1年間時間稼ぎをしました。
この構図はどこかで見たことがある人がいるかと思います。
そうです。
日米和親条約の時と同じです。
日本が持つ最大の外交能力。
それは八方美人戦術と返事の先延ばし戦術です。
これは昔から現在に至るまで見られる外交戦術です。
日本の外交戦術は、
終始一貫、どの国にもいい顔をして、結論は先送りにする。
これが日本流の外交です。
また、モンゴル側にも懐事情がありました。
侵略するスピードが早すぎて人口を扶養することができませんでした。
特に南宋の元兵士や
高麗にも人余りが起こっていました。
フビライ・ハンは、
人減らし政策として
主に南宋・高麗軍を主体の軍を日本に派遣しました。
勝ったら日本をゲットできてお得だし、
負けても人員削減ができてお得だった訳です。
こうして文永の役が起こりました。
文永の役の推移
文永の役は元朝は、
高麗軍に資金調達と造船を命令します。
高麗はこの文永・弘安の役の多額の出費が滅亡する要因の1つになりました。
モンゴルは騎馬民族であるため、
造船技術が無かったのです。
これは、モンゴル軍は平野での戦いを得意としていましたが、
敗戦した戦いに共通しているのは平原では無いところがほとんどです。
ワールシュタットの戦いはオゴタイの病死があったので、
ジョチが撤退したからです。
日本流に言うと
戦国時代の本能寺の変で、豊臣秀吉が毛利から撤退したような感じに似ていますね。
モンゴルが負けた地形は、
以下の3つのバイオームで負けています。
- 熱帯樹林バイオーム
- 砂漠バイオーム
- 海洋バイオーム
の3つです。
平原と比べて、
モンゴルはこの3ヶ所の攻略に失敗しています。
結局のところ、
馬が使えないところでは負けてしまった。
これは、
太平洋戦争で日本軍の三八式歩兵銃や日本の軽装の軍服が
熱帯や寒帯地方では温度・湿度あまり言うことを聞かなかったのと似ています。
また、日本は、
豊臣秀吉の朝鮮出兵のさい、
亜寒帯の朝鮮半島の上陸に対して、
革靴ではなく、わら草履で挑んだのと似ています。
結局は国によって、
得意なフィールドがあるということです。
1274年、
元(南宋人含む)・高麗連合軍が
対馬に対してまず上陸します。
2020年代ではゴーストオブツシマというゲームが流行っていました。
ゴーストオブツシマでは境井 仁が対馬を守るために奮闘していましたが、
モンゴル軍は対馬の老若男女を虐殺し、
特に女性に対してはレイプなども行いました。
ついでに壱岐も攻略されて、
女の人の手に穴をあけて紐を通して船に飾りました。
なぜなら日本からモンゴルの船に矢を打てないようにするためです。
これは、日本国内でもあったことで、
愛媛県が長州追討の際に、周防大島の人を虐殺・強姦した事件がつい約150年ほど前ありました。
戦争とはそんなものです。
さてさて、文永の役ではモンゴル軍は博多湾に上陸して、
博多の街を盗賊にように闊歩しました。
ここでも鎌倉幕府軍はまだ動きません。
元寇は神風で勝ったのは、
弘安の役の際のことで、
文永の役の時には無かったと近年では有力な説となっています。
文永の役では、
博多を一荒らしした時点で、
「今回はこれぐらいにしといてやるわ」で、
撤退したという説。
と、
「日本の内陸部に侵入しすぎて、モンゴルからの兵站が持たず、結果的に鎌倉幕府の武士団に負けた」
という2つの説が近年では有力視されています。
つまり、文永の役ではモンゴル軍はどちらにせよ上陸したのです。
文永の役では、
日本軍は毎度おなじみの
「やーやー我こそは」という儀式を行っている最中に、
モンゴル軍がてつはうを用いて日本軍に爆撃した
「蒙古襲来絵巻」は有名ですね。
蒙古襲来絵巻の竹崎季長は、
その一発屋みたいな肥後(現在の熊本県)の御家人です。
別に死んだ訳でもないのに、
大げさに誇張して自分がカッコよくみせるように描いています。
竹崎季長は蒙古襲来絵巻の一発屋です。
ちなみに、
鎌倉幕府軍では九州では名門の武将
少弐経資らが応戦します。
当時の少弐家は北九州では、
大友家・少弐家・菊池家の三家が有力でした。
これはあまり覚えなくてもいい情報です。
少弐家は神代家や龍造寺家の台頭などで、
その後、衰退します。
異国警固番役(1275年)
北条時宗は1275年、
御家人に命じて異国警固番役を任命します。
博多湾に石塁を築いて防衛強化します。
なぜ、石塁を築いたのでしょうか?
それは船を上陸させないためです。
今でも博多湾周辺には、
この異国警固番役でできた
石塁の跡が残っています。
これはここだけの話ですが、
この石垣は世界史級の石垣なので、
世界遺産に申請すれば通るかもしれませんね。
弘安の役(1281年)
1281年、これはモンゴル軍の本チャンで、
2ルートに分かれて日本侵略をしにきました。
これが弘安の役といいます。
まぁ、勝てたらいいなぁぐらいの淡い期待の元、
モンゴル軍は第二回日本侵略を行いました。
朝鮮半島からの元・高麗軍3万人を、
これを東路軍といいます。
中国大陸の南宋からやってきた10万人の軍勢を、
江南軍といいます。
江南軍を率いたのは范文虎という人です。
日本語ではんぶんことは面白い名前ですね。
弘安の役で対応にあたったのは、
伊予(現在の愛媛県)の河野通有です。
河野氏は承久の乱では、
後鳥羽上皇側で参戦したので、
だいぶ勢力としては弱っていましたが、
流石、藤原純友の乱で太宰府から神戸に至る瀬戸内海一帯を支配しただけではある地。
その蛮族魂を活かして、
モンゴル軍に対して卑怯な作戦を取ります。
モンゴル軍は上陸できず、夜になると船で就寝しました。
そこで河野氏は小舟でこっそり近づき夜襲をし、船を燃やします。
毎日こんなことをしていたので、モンゴル軍は不眠状態になりました。
さらに、モンゴル軍には悲劇が、
鎌倉幕府側からしたら喜劇が起こります。
台風が弘安の役ではやってきたのです。
それに、モンゴル軍は14万人の人数を率いてやってきたため、
モンゴル軍は基本的に食料は敵地調達が基本です。
上陸できず、暴風雨にあったので、
多くの船が沈没したり、飢餓にあったりして、
残ったわずか数隻の船は命からがら帰りました。
鎮西探題の設置(1293年)
北条時宗は1293年、九州支配を強化するために、
鎮西奉行を改めて、鎮西探題を設置しました。
これで、鎌倉幕府の支配は名実ともに九州支配も確立しました。
神国思想
「元軍が日本に負けた」
弘安の役ではそのきっかけが、
やがて神風だったということを考えられるようになって、
神国思想というものができてきます。
つまり日本は神州。
「神に守られている国だ。」
と考えられるようになっていきました。
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