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ウィーン体制

ラテンアメリカの独立とモンロー教書

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ウィーン体制
circa 1902: A caricature of England and Germany responding to the Venezuelan Blockade. Punch - pub. 1902 Original Artist: By Bernard Partridge. (Photo by Hulton Archive/Getty Images)
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トランプ大統領が誕生してしまいました。
メキシコにトランプ・ウォールがそびえたち、
アメリカ側から見た小さな巨人に侵入を防げるのでしょうか?
さて、世界はどうなってしまうのでしょう??
そこで今回は、メキシコを始めとするラテンアメリカのお話です。
トランプの行動指針を推測するために
参考になる記事をアップしますね。

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「自由」と「平等」の伝来

フランス革命などをきっかけとして、
ヨーロッパでは自由と平等の概念が広まりました。

フランス革命のまとめ
...

やがて、その自由と平等は
ラテンアメリカにも伝播しました。
ナポレオンのブルボン朝打倒により、
さらに、自立化の流れがより一層進んでいきました

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ラテンアメリカ諸国の独立

ハイチ

まず最初の独立を果たしたのはハイチです。
フランス領であったハイチの住民は、
フランス革命の理念に共感しました。
1791年、
「黒いジャコバン」と呼ばれた
トゥサン・ルヴェルチュール(Toussaint L’Ouverrure/1743~1803)
指導者として独立運動を開始し始めます。

トゥサン・ルヴェルチュール

ナポレオンが放った兵士をなぎ倒し、
1804年にハイチは独立を獲得します。

スペイン植民地の独立

スペインの植民地では、
本国から派遣された本国人(ペニンスラール/peninsular)
特権階級として君臨しており、商人や官僚に大きな力を持っていました。
地主として経済力をもっていた現地生まれの白人(クリオーリョ/Criollos)
その高圧的な姿勢に強い不満をいだいていたのです。

シモン・ボリバルの活躍

ベネズエラではまずはじめに、
聖職者のミランダ(Miranda)が解放運動を開始します。
しかし、スペイン軍に逮捕されてしまいました
次に現れたのは、
シモン・ボリバル(Simon Bolivar/1783~1830)です。

シモン・ボリバル

スペイン軍へと戦闘を挑むことになりました。
シモン・ボリバルは、スペイン軍との戦闘のためには、
白人と先住民の混血であるメスティーソ(mestizo)
白人と黒人との混血であるムラート(mulattos)らの協力も必要と感じました。
そこで、奴隷解放宣言をだします。
リンカーンの奴隷解放宣言の約50年も前の話です。

南北戦争②~リンカン当選から終戦まで~
...

ボリバル軍は強かったのです。
なぜなら、スペイン軍は国から命ぜられて、
しぶしぶこんな遠いところに来ている中で、
植民地の民は自由を獲得するのに必死だったからです。
1811年に、ベネズエラとコロンビア
1819年に、大コロンビア共和国
1825年に、ボリビア
と次々と独立させていきました。
必死でやれば、世の中なんとかなるものですね。

サン=マルティンの活躍

一方、ラテンアメリカの南部では、
アルゼンチン出身のサン=マルティン(San-Martin)が活躍します。
1816年にアルゼンチン
1818年にチリ
1821年にペルー
を独立させました。

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国際情勢の変化とモンロー教書

このラテンアメリカ諸国の独立には、
国際情勢の変化が追い風となりました。

オーストリアメッテルニヒは、
ラテンアメリカの独立運動を恐れました。
なぜなら、ウィーン体制が崩れ、
この独立運動がヨーロッパに再輸入され、
民族のナショナリズムを刺激することを恐れたからです。

ウィーン体制とリベラリズムとナショナリズムの高揚
...

しかし、イギリスの外相・カニング(Canning/1770~1827)は、
スペインの独占市場であったラテンアメリカに参入するために、
四国同盟とは異なる単独行動に走りました。
イギリスは自由の名のもとに、自国の経済利益を優先しました。

さらに、1823年、
アメリカ大統領・モンロー(Monroe)は、
ヨーロッパとアメリカ大陸の
相互不干渉を提唱します。
アメリカ大陸の権益を
アメリカ合衆国が独占しようとしたのです。
そうしてアメリカ合衆国は、
モンロー教書(Monroe Doctrine)を発表します。
アメリカ合衆国の孤立主義政策はここからはじまりました。
アメリカ合衆国はこの時から
基本、一人で生きていくことを選択していくようになります。

こうして、メッテルニヒの干渉は失敗します。

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ブラジル帝国

ナポレオンの進出でブラジルに亡命した
ポルトガル国王、ドン・ペドロ(Dom Antonio Pedro)
1822年、ブラジル帝国を建国して皇帝になります。
1824年、立憲君主制の憲法を制定しました。

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メキシコ

1810年、神父・イタルゴ(Hidalgo)は
インディオ農民を指導した武力蜂起が開始された。
そして、1819年、メキシコ帝国として独立に成功します。
1824年には共和国になりました。
しかし、独立後も宗教勢力が根強く、
国内の自由化は進んでいきませんでした。

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ラテンアメリカの独立後

ラテンアメリカでは結局のところ、
純血の白人で地主層である
クリオーリョが主な担い手となっていった。
自作農は発生せず、地主政治が行われた。
経済的にはイギリスの目論見どおり、
イギリスの資本が流入してきます。
イギリス産品のために、
ラテンアメリカ諸国では、
モノカルチャー経済に陥ってしまいました
文化的には、イベリア文化とインディオ文化が融合していき、
そののち、黒人文化も混ざり、独自の文化圏を形成しました。

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