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豊臣秀吉戦国時代

豪雪の足止めから「美濃大返し」へ!秀吉vs柴田勝家、天下を分けた「賤ヶ岳の戦い」全貌

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本能寺の変を経て、織田信長の継承者を巡る激突となった賤ヶ岳の戦い。羽柴秀吉(豊臣秀吉)と柴田勝家が対峙したこの合戦の全貌をわかりやすく整理しました。

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戦いの背景と両軍の勢力(1582年〜1583年)

1582年の清洲会議以降、秀吉と勝家の対立は決定的なものとなります。近江・美濃・北伊勢を巻き込む大合戦へと発展しました。

  • 積雪というハンデ:越前(福井県)を本拠とする柴田勝家は、の豪により動くことができず、秀吉に主導権を握られることになります。秀吉は勝家が動けない間(約1年間の政治的駆け引き)に勢力を拡大しました。
  • 戦力差:春の雪解けとともに、勝家軍3万余が北近江(長浜市木之本町周辺)へ進軍。これに対し、秀吉軍は7万5000の大軍を展開しました。
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決戦の火蓋と「美濃大返し」(1583年4月)

  • 4月16日(岐阜城で挙兵):勝家と結んだ織田信孝岐阜城で挙兵。秀吉は大雨の中、これを討つため大垣城へ向かいました。
  • 4月20日(奇襲と中川清秀の戦死):秀吉の本隊が離れた隙を突き、勝家方の「鬼玄蕃」こと佐久間盛政賤ヶ岳砦の陣を強襲。鬨の声をあげて攻め立て、秀吉方の先鋒・中川清秀が戦死します。盛政は勝家の「引き揚げよ」という命令を無視して深追い(尻目にかける)し、陣にとどまりました。
  • 神速の「美濃大返し」:報せを受けた秀吉は、大垣城から木之本までの13里(約52km)を、松明を掲げて僅か5時間で駆け戻るという驚異的な大移動を成功させます。
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総崩れと勝家の最期

  • 決着と追撃:夜明けとともに秀吉本隊が突如現れたことで、柴田軍は動揺して総崩れとなりました。秀吉軍はそのまま越前へ向けて激しい追撃戦を開始します。
  • 賤ヶ岳七本槍の躍進:この追撃戦で抜群の武功を挙げたのが、福島正則加藤清正ら「賤ヶ岳七本槍」と呼ばれる若手武将たちでした。
  • 勝家の最期:本拠地である北庄城(現在の福井市)に追い詰められた柴田勝家は、妻のお市の方とともに自害。天下の趨勢は完全に秀吉へと傾くことになりました。

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