天正10年(1582年)の「本能寺の変」以降、織田家臣・豊臣秀吉(当時47歳)の台頭に最後まで抗い続けた貴公子がいました。織田信長の三男であり、伊勢神戸氏を継いで神戸信孝とも名乗った織田信孝(当時26歳)です。柴田勝家とともに反秀吉の立場を貫いた信孝は、いかにして追い詰められ、最期を迎えたのか。凄絶な辞世の句とともにその生涯を追います。
本能寺の変から清洲会議:暗雲漂う家督相続
1582年、本能寺の変で父・信長が倒れると、信孝は羽柴秀吉らとともに山崎の戦いに参加し、父の仇である明智光秀を討ち破りました。
しかし、その後に開かれた清洲会議で運命が一変します。後継者争いにおいて、秀吉は信長の嫡孫である幼い三法師(後の織田秀信)を擁立。信孝は岐阜城と美濃を与えられ、三法師の補佐役に任命されたものの、後継者から外されたこの結果に不満を募らせます。
さらに、当時の宣教師ルイス・フロイスが「織田信孝を前途有望な青年」と評価していたように、その才覚と血統は秀吉にとっても大きな脅威でした。秀吉にとって信孝は、天下奪取のために真っ先に排除すべき難敵となっていきます。
反秀吉の共同戦線と激動の暗闘
不満を深めた信孝(26歳)は、織田家の筆頭家老である柴田勝家、さらに伊勢の滝川一益と手を組み、反秀吉の共同戦線を結成します。
| 時期 | 出来事 |
| 天正10年12月 | 秀吉の電撃的な進軍により岐阜城を包囲され、一旦は12月には講和を余儀なくされる。 |
| 天正11年4月 | 柴田勝家が動いたことで、信孝は再び岐阜城で挙兵。しかし、賤ケ岳の戦いが勃発。 |
| 4月24日 | 北ノ庄城が落城し、勝家とお市の方自害。後ろ盾を完全に失う。 |
勝家の敗北を受け、秀吉の命を受けた異母兄・織田信雄の軍勢勢力に囲まれた信孝は、ついに岐阜城を開城。降伏を余儀なくされました。
1583年5月2日、野間での切腹と激しい怨念
降伏した信孝は、尾張内海の野間(現在の愛知県美浜町)にある大御堂寺(野間大坊)へ送られました。野間はかつて源義朝が家臣に裏切られて討たれた因縁の地です。
1583年5月2日、織田信雄の使者から切腹を命じられた信孝(26歳)は、大御堂寺の塔頭にて切腹して果てました。その最期は、自らの腸を掴み出して掛け軸に投げつけたとも伝わるほど凄絶なものでした。
信孝が死の間際に詠んだ辞世の句には、秀吉への恨みが露骨に込められています。
「昔より主をうつみの野間なれば むくいを待てや 羽柴筑前」
(かつて源義朝が家臣に裏切られたこの野間の地で、主家を裏切った羽柴筑前守[秀吉]よ、いずれ訪れる天罰と報いを待つがよい)
残された最後の手駒も瓦解
信孝の自害により、秀吉に反抗する旧織田臣下の柱石は事実上壊滅しました。
さらに同じ7月、伊勢の亀山城などで粘り強く抵抗を続けていた滝川一益も降伏。秀吉はついでに滝川一益も排除することに成功し、織田家内部における反抗勢力を完全に掃討しました。
信長亡き後、2度にわたって反秀吉の旗を掲げて戦った信孝の死によって、織田家の天下は完全に豊臣秀吉(47歳)の手へと移っていくこととなったのです。



コメント