平将門の乱~いつ?なぜ?どこで?誰に鎮圧された?を解決~

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平安時代中期
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平将門と平将門の乱

乱の発生

朱雀天皇の時代(930年~946年)のころに、
平将門の乱が発生します(935年~940年)。

下総国猿島(しもうさーさしま/現在の茨城県)
根拠地とする高望王の孫平将門(たいらのまさかど)がいました。

平将門も桓武平氏です。

935年から婚姻問題と所領問題で、
一族の間で私闘を繰り広げていた
叔父の平国香(たいらのくにか)を合戦で殺害したところ、
朝廷の追討対象となってしまいました。

939年、
常陸国(ひたちー/現在の茨城県の大半)
国司の無道ぶりを訴えてきた
常陸の豪族・藤原玄明(ふじわらのはるあき)
とともに反乱を起こしました。

乱の流れ

将門は常陸国衙(こくが)を攻め落とし、
国司の証である印鑑(国印/こくいん)などを奪い、
そのまま国衙を焼き払います。

国衙は律令国家の支配組織の国司を参考に!

下野国(しもつけー/現在の栃木県)・上野国(こうずけー/現在の群馬県)国衙を攻め落とし、
下野で新皇(しんのう)と自ら称するようになります。
関東の独立を宣言されました。

承平の乱(平将門の乱)の地図

平将門の乱の地図

つかの間の関東独立の伝説でした。

乱の鎮圧

朝廷はこれを押さえるために、
藤原忠文(ふじわらのただぶみ)を征東大将軍として東国に派遣します。

しかし、その到着を待たずに、
平国香の子・平貞盛(たいらのさだもり)
下野国の豪族で下野国の押領使である
藤原秀郷(ふじわらのひでさと)らによって、
平将門の本拠地を強襲し、この乱は平定されます。

平将門は矢にあたって討死してしまいます。

平将門の首塚

平将門の首塚は将門塚として、
東京都千代田区に祀られています。

伝説

wikipediaによると、

関東大震災後の跡地に大蔵省の仮庁舎を建てようとした際、工事関係者や省職員、さらには時の大臣早速整爾の相次ぐ不審死が起こったことで将門の祟りが省内で噂されることとなり、省内の動揺を抑えるため仮庁舎を取り壊した事件や、第二次世界大戦後にGHQが周辺の区画整理にとって障害となるこの地を造成しようとした時、不審な事故が相次いだため計画を取り止めたという事件

があったようです。要するに平将門の首塚を撤去しようとすると怨霊に殺されてしまうという伝説ですね。

将門記

日本初の軍記物として、
『将門記』(しょうもんき)
平将門の乱を扱ったものとして
書かれました。

「将門記」には、
平将門の乱の経緯が、
くわしく記載されています。

非常に多くの出来事が、
こと細かく書かれているため、
10世紀の武士がどういうものであったかを、
イメージするのには、
将門記はピッタリなものでした。

将門の乱を考えることが、
10世紀の社会を見つめなおすことに通じるのです

今の日本は、
中央集権があまりに強くなり過ぎた結果、
地方には不満がたまるとともに、
地方の衰退がすすんでおります。

21世紀前半は、
おそらく、平安時代中期から末期にかけての、
地方武士が徐々に勢力を強めたように
新たな勢力が登場するかもしれませんね。

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