さて、前回の

で、公武合体論と尊王攘夷論という2つの考えが出てきま
この2つの論を唱えるグループの間で相次いで激突します。
八月十八日の政変
尊王攘夷論者の真木和泉(まきいずみ/1813~1864)らは、
孝明天皇が大和に行幸して、
天皇自ら攘夷戦争の指揮をとるよう計画をたてていました。
それに対して、
公武合体論者である薩摩藩・会津藩の両藩は、
朝廷内部の公家の公武合体論者と提携し、
密かに反撃を試みていました。
1863年8月18日、
薩摩藩・会津藩両藩の藩兵が御所を固める中、
長州藩の勢力と京都の急進派の
三条実美(さんじょうさねとみ)や沢宣嘉(さわのぶよし)ら
7名の公家を京から追放しました。
薩摩藩・会津藩が朝廷内の主導権を取り返した事件を
八月十八日の政変と言います。
また、公家が長州藩に追い出された出来事を、
七卿落ちと言います。
天誅組の変
1863年、公家の中山忠光、土佐藩士の吉村虎太郎らが
大和五条の幕府代官所を襲った事件。
生野の変
福岡藩を脱藩した平野国臣、公家の沢宣嘉らが
但馬生野を襲った事件。
天狗党の乱
水戸筑波山で
藤田小四郎ら水戸藩尊皇攘夷論者が挙兵した事件。
池田屋事件
1864年、池田屋事件(いけだやじけん)が発生します。
京都守護職の指揮下で京都市中の警備にあたっていた
近藤勇(こんどういさみ)率いる新撰組(しんせんぐみ)が、
京都の旅館・池田屋で、20数名の長州藩士や尊皇攘夷派志士を、
殺傷した事件のことをいいます。
この戦いで、
- 来島又兵衛
- 真木和泉
- 久坂玄瑞
などが戦死しました。
新撰組とは?
新撰組とは、幕府側が京都の治安維持のために雇った武士集団。

新撰組ののぼり旗
コラム:寺田屋事件と池田屋事件
寺田屋事件 | 1862年 | 薩摩藩内部の対立 |
池田屋事件 | 1864年 | 新撰組による尊皇攘夷派志士殺傷事件 |
禁門の変(蛤御門の変)
八月十八日の政変で、失った朝廷内での勢力を
長州藩は取り戻そうとしていました。
長州藩は池田屋事件をきっかけに、
1864年7月、再び藩兵を京へ上らせました。
しかし、迎え撃った幕府側の薩摩藩・会津藩・桑名藩の藩兵と、
京都の御所付近で戦い、敗れてしまいます。
これを、禁門の変(きんもんのへん)、
または蛤御門の変(はまぐりごもんのへん)といいます。
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